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201005(月)前日201006(火)忍城/201006崎玉古墳群

新型コロナの収束は先が見えない。このまま自粛では「社会が窒息」してしまうということで、政府も経済再建策を打ち出している。政権も安倍氏から菅氏に変わり、東京も含めてGoToキャンペーンが実行された。
そんな折に埼玉出張があり「+1の旅」を見逃す手はない。かねてより行きたかった「崎玉古墳群」に狙いを定めた。更には、この地に「忍城」があることを現地について知った。そんなわけで「城巡り&古墳巡り」になりました。
■崎玉(さきたま)古墳群古墳群
埼玉古墳群は5世紀後半から7世紀初頭にかけて、大宮台地の北端に築かれた、前方後円墳8基、円墳1基並びに小円墳群で構成される、我が国を代表する古墳群で、全国でも突出した規模になります。
埼玉古墳群は前方後円墳の形態に強い規格性を持ち、古墳時代の地域の首長層と、中央のヤマト政権とのつながりや、当時の政治的動向、首長墓の展開を追求できるなど、古墳時代を研究する上で重要な遺跡として高く評価されています。
ヤマトから遠く離れたこの地に、これほどの古墳群があることに驚きです。
古墳群が出来たころ、この地はヤマトにまつろわぬ勢力との激戦地であった。前方後円墳は「ヤマトの臣下」に与えられた特権です。崎玉古墳群は、非ヤマト勢との激戦地に築いた橋頭保であったであろう。
まずは、埼玉県立さきたま史跡博物館で情報収集です。


消毒、体温測定、情緒指名の記入をしてから入館料を支払う。
ここの凄いところは、発掘された「国宝」の本物(レプリカ)が展示されていることです。まずは、国宝を!
 ・目の細い埴輪がここの特徴
 ・盾と一体になった埴輪もある。戦闘が日常であったか?
 ・桶型の埴輪は古墳の「結界」を作っていた
 ・発掘された本物の帯金具
 ・埋葬説明図
 ・発掘されて「鉄剣」の資料
  勿論「本物」の展示もあった

博物館を後にして、古墳群見学へ

■愛宕山古墳
長さ53mで、埼玉(さきたま)古墳群の前方後円墳としては最小です。
忍城水攻めの際の「石田堤」が残っていました。
全長28kmの堤とは、気の長い話です。
■丸墓山古墳
直径105m、日本最大級の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。

古墳群唯一の円墳です。
おそらくヤマトに敵対した将軍の墓だと思いまあす。規模は日本最大級で、敬意を払われた「偉大な敵」たっだとのでしょう。
この古墳は登ることが出来ました。

丸墓山古墳頂上から、正面に「将軍山古墳」、左には「稲荷山古墳」が見える

円墳から方墳へ
■稲荷山古墳
5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳です。(以前、古墳の上に稲荷社があった)
前方部は1937年に土取で壊されましたが、1997年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には2重の堀が巡っています。


さきたま風土記の丘を整備するために、1963年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査したところ、頂上から2基の主体部が発見されました。
■将軍山古墳
6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土しました。

しかし、墳丘東側が削平(されており、石室の一部が露出するなど崩壊の危険が迫っていました。そこで、埼玉県では1991年から墳丘と周堀の復原や墳丘に埴輪の複製品を並べるなどの整備を進めてきました。

崩落した墳丘部分をドームで覆い、古墳の内部に入って複製の石室や遺物の出土状況を見学できるガイダンス施設を建設し、1997年に将軍山古墳展示館としてオープンしました。


石室崩壊の危機のおかげで、再現された石室を詳しく見ることが出来ます。
これは「貴重な展示」だと強く思いました。
この時点で13時。
朝から歩き詰めで、空腹で疲れてきました。空腹と疲労で「急性低血糖」を起こす持病があります。もう「危険な予兆」があり、見学後、自販機で甘いドリンクを2本購入し「糖分補給」をしました。
■二子山古墳
長さ132.2m、埼玉古墳群の中で、そしてかつての武蔵国の中でも最大の前方後円墳です。名前は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもの

急性低血糖の症状が出始め、もう限界です。
双子山古墳近くでお店を見つけ入りました。

お酒のお店で「魚が売り」のお店です。元気なら「日本酒」を注文するところですが、今はそれどころではありません。
早く、空腹を解消しなければいけません。

お店1番の海鮮丼を注文したのですが、味はほとんど分かりませんでした。それでも、何とか気を失うことなく済みました。

休憩を終えて、少し元気を回復。道路を渡って次の古墳です。
■鉄砲山古墳
長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさです。
「鉄砲山」という、古墳としてはめずらしい名前は、江戸時代古墳の周辺が忍藩の砲術練習場になっていたことから名付けられました。

■中の山古墳
3つの古墳の真ん中にあたることからその名がつきました。全長は79mです。
■奥の山古墳
1968年に周堀の一部の発掘調査が行なわれ、埼玉古墳群では唯一、一重で盾形(周堀と考えられていましたが、2007)年度から2009年度まで行った発掘調査で、台形で二重周堀の前方後円墳であることや、墳丘の全長がこれまで考えられていた長さより4m短い66mであることが分かりました。また、周堀については埋まっていた土を分析したところ、水のない空堀であったことも分かりました。奥の山古墳は、発掘調査の成果をもとに平成21~25年度に復原整備を行いました。
■瓦塚古墳
博物館に一番近い古墳で、移築民家の裏山のように見えます。全長73mの前方後円墳で、6世紀前半ころに造られたと考えられています。

埼玉古墳群の特徴である、長方形で二重の周堀が巡り、前方部の西側には造出しが見られます。また、外堀には通路となるような掘り残した部分が1ヶ所あります。

これで、崎玉古墳群散策は全コース終了です。鉄砲山古墳以降は、流石に訪れる人は稀でした。
この後、1.5km離れたバス停まで歩き、バスで最寄りのJR吹上駅へ。一旦、熊谷まで戻り「北陸新幹線・東海道新幹線・阪和線」と乗り継いで帰路につきました。
距離700km、呆れるほどロスなしの乗り継ぎで4時間半、18500歩でした!
もし機会があるなら、もっとゆっくり散策してみたいですね。
大阪府に世界遺産の指定を受ける「中百舌鳥古墳群」があります。ただ、崎玉古墳群のような「密度」はありません。
5~7世紀「濃厚な文化」を築いた豪族がいたのだと、感動しました!


前日 忍城 崎玉古墳群






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