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201005(月)前日/201006(火)忍城/201006崎玉古墳群

新型コロナの収束は先が見えない。このまま自粛では「社会が窒息」してしまうということで、政府も経済再建策を打ち出している。政権も安倍氏から菅氏に変わり、東京も含めてGoToキャンペーンが実行された。
そんな折に埼玉出張があり「+1の旅」を見逃す手はない。かねてより行きたかった「崎玉古墳群」に狙いを定めた。更には、この地に「忍城」があることを現地について知った。そんなわけで「城巡り&古墳巡り」になりました。

■忍城
翌朝(201006)、行田市へ向かった。
目的は「崎玉古墳群」です。普段通り「調査不足」で、新宿からJRで熊谷へ向かいました。下車してから右往左往です。
 ・東武秩父鉄道で目的地へ向かうのですが、誠に電車の本数が少ない。ただ、ここは秩父への交通路です(写真右)。何時か秩父にも行ってみたいものです。SLも運航しているようで楽しそうです。
 ・最寄り駅にはtaxiがない。そこで、taxiがある行田市へ向かうことにしました。
ただ、恐ろしく列車本数がない。待ち時間がたっぷりあったので、熊谷の観光案内所で情報入手です。

最も驚いたのは「忍城」があったことです。
私はこのことを全く知らなかった。そこですべての予定が変更になった。手順から言えば、忍城見学⇒崎玉古墳群⇒JR最寄り駅⇒帰路につく。このようにスケジュール変更をして行動開始です。

行田市駅(写真右)到着。忍城へは歩いていける距離でしたが、急な訪問で時間がない。駅からtaxi利用で忍城へ

豊臣秀吉は、小田原攻めを行った。
忍城主は小田原城へ籠城し、城代の気まぐれで(石田方の使い番に腹を立てて)恭順を拒否したため、忍城は石田三成指揮する2万の軍政に攻められた。

往時の城域地図を入した。さして大きくもない城だが、湿地(ブルーで表示)という天然の要害を持つ城郭です。そのため、城攻めに大軍が展開できない。そこで、石田軍は全長28kmに及ぶ「石田堤」を築いて水攻めをする。しかし、落城することはなかった(以上は、小説「のぼうの城」に詳しく書かれている)。
そんな歴史を作った「城」が忍城でした。ただ、今は湿地は消え、往時を偲ぶ術はない。現存するのは、左上の本丸と右下の水城公園だけです。
忍城城址へ到着しました。ここは本丸跡です。ここには、
 ・わずかだが堀がある(往時のものかどうかわからない)
 ・三重櫓がある:忍城には天守はなかった。三重櫓があったことは史実だが、再現された三重櫓は資料に基づいていない(もっと小さかった)そうです。

まずは、外から本丸を眺めながら歩いてみました。

今まで多くの城を見てきましたが、この城を落とすのは容易ではない。これじゃ攻めあぐねただろう!

ここには歴史資料館がある。消毒・体温測定・住所氏名を提出して入場料を払う。

ここで、行田市が「足袋」で一世を風靡した街であることを知った。
展示の多くは「足袋」に関するもので、城に関するものは三重櫓ないでした。
ただ、豊富な資料が残っているとは思いませんでした。

本丸を後にして、水城公園へ歩いていきました。時間にして15分ほどで、やはり城郭は大きくはない。
小田原城開城に従い、忍城も開城する。
忍城のお姫様は、その後数奇な運命を辿る。豊臣秀頼の「性教育担当」になり、秀頼の子供を産む。
秀頼の子は、大阪城落城後も助命され「豊臣家最後の人」になる。子孫を作ることは許されなかったので、鎌倉東慶寺に入り尼となる。ちなみに、東慶寺が駆け込み寺になるのは、秀頼の子によって始まる。
  (このことはマニアでないと知らないかも…)
忍城址を出て、行田市役所を経由して、水城公園へ向かいます。

大変な駆け足でしたが、城郭北西(本丸)から、市役所を含む行政区(中央部分)を抜けて、城郭南島角にあたる水城公園まで歩きました。往時は広大な湿地だった場所ではないかと思います。。

水城公園は、強いて言えば「水の城」を偲ぶ、唯一の場所になっています。
現在は「市民の釣り堀」といった感じで、多くの太公望が集っていました。

水に浮かぶ「出廓」だったと思しき場所に「瀟洒な洋館」が立っています。

足袋で行田市が隆盛だったことの「忍信用組合」だった建物です。
中も見学したかったのですが、新型コロナで「閉館中」でした。
地図によれば、芝生の公園は「水」に囲まれているはずで、きっと良い雰囲気だったと思います。

なにせ、想定外の忍城で、これ以上は時間が取れませんでした。

更に歩きます。
足袋の全盛期、この町は「蔵の街」を形成してしていたようです。
想像ですが、この通りは旧城下町であったっと思います。
更には寺社が多かったことから一部は「寺町」であった可能性もあります。それも「次回」があったなら調べてみたいことです。

もう、記号のような資料になってしまいましたが「蔵の配置図」です。明確にメインストリートがあり、水城公園から行田駅まで続いています。私は、約半分を歩き、市役所へ引き返しました。
メインストリートの歩道には、

このようなサインが埋め込まれとぃます。
ただ、これ以外のサインがなく、「蔵」を見るけられたのは僅かでした。初めての訪問者のために、もう少し丁寧なサインが欲しいあと思いました。
また、コロナの影響で、公開されている蔵がなかったのも寂しかったですね
■足袋

行田市は「足袋の産地」であった。
明治になり足袋の需要が上がり「一世を風靡」したという。行田市内に足袋の製造所は100件を超え、東武秩父鉄道のラッシュアワーは「凄かった」そうです。昭和30年代、突然「足袋の時代」は終わる。かわる産業はなく、町は寂れていく。それは鉄道の衰退でもあったそうです。ちなみに、JR高崎線は「汽車の煙で足袋が汚れる」という反対で、行田市街地にひくことが出来なかった。それが街の衰退に拍車をかけたという。
(たまたま出会った先達にこのお話を伺うことが出来ました)
次に来る機会があれば、もう少し資料を調べてから「時間をゆっくりと来たい」ですね!
市役所前までtaxiに来てもらい、崎玉古墳群へ向かいました。片道2.6km、普段なら歩く距離あのにねえ~


前日 忍城 崎玉古墳群






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