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190412(金)金沢城と190413(土)丸岡城/晴れ

「+1の旅」の始まりです。
金沢駅で、ヘルメットとユニホームを宅急便で自宅に発送、代わりに土産の和菓子をリュックに詰める。それから、パン屋さんで朝食を済ませた。

金沢駅を鈍行で、丸岡に向かう。途中、雪を頂いた山々が連なる、これはアルプスだろうか(山のことは全く詳しくない)。
■丸岡城
今日の目的は「丸岡城」
日本に現存する木造天守は12か所。私にとっては10ヶ所目の訪問です。
予想では最後になるはずでしたが、急な金沢出張で、順位が繰り上がってしまいました。

一般的には、福井駅からバスで丸岡城へ向かうそうです。所要時間は40分ですが、今は「花祭り」のため、バスが手前で止るという。で、選らんコースは、金沢8:29発9:46丸岡着の鈍行。駅からはタクシーで、10分ほどでお城に到着です。
天正4年(1576年)、織田信長の家臣で越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊によって築かれた城。
柴田勝家が秀吉に敗れた後、豊臣家の武将によって支配された。徳川時代になり、本多家4代(お家騒動で移封)有馬家(九州のキリシタン大名だった)8代で明治に至る。
 ・城郭構造は連郭式平山城。
 ・天守は独立式望楼型二重三階。江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つ
 ・現存する天守は国の重要文化財に指定されている。北陸地方で唯一の現存天守で、現存する最古の天守とも云われているが、天守の構造分析から慶長18年(1613年ごろ)の建造という説もある。
 ※現存天守が創建時であるものである確証がなく「国宝指定」が出ていない
 ・かつては、五角形の広い内濠に囲まれた中に本丸や二の丸があったが、現在は天守と天守台石垣だけが残る。
 別名は、合戦に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説から、霞ケ城(かすみがじょう)。
明治6年(1873年)の廃城令で大蔵省が処分する廃城処分となり、天守以外はすべて解体された。その後、天守は丸岡町により買い戻され解体を免れた。平成18年(2006年)には日本100名城に選定された。
以上がネットから検索した沿革です。

丸岡城天守の見学は、ボランティアガイド氏にご案内いただきました。これはとっても有効なので、ご見学には是非お勧めです。

以下は、私の感想です。
 ・本丸と二の丸が内堀に囲まれている
 ・広い内堀(最大200m)の外側を三の丸(家臣団の家)が取り囲んでいる
 ・三の丸を中堀が囲み、その外に民家が広がる
※この堀構成は珍しいと思う
 ・民家を外堀が囲み、更に「総構の土塁」で領民を守っている

ここは加賀の一向一揆の本拠地「豊原寺」から4qで、度々一向宗から攻撃を受けている。城の大きさに比べ三重の堀を持つ城構え(城下を丸ごと囲い込む防壁)を見れば「実戦向き」であったことが分かる。更には、総構を持つ城は日本では珍しい。

  天守は無骨です!
  飾りは一切ない


 ・6mの野面積の石垣に、3層の天守で総高さは20m。
※石は貴重品だったようで、近くの河原石が主力。中には墓石も交じっている

 ・当時としては廻廊を持つのは珍しいのではないか。物見やぐらとして充分目的を果たしていたと思う。

 ・三層ですが「通し柱」はなく、一層毎に積み重ねている。いわゆる「岡持ち」構造で、1階と2階の柱位置が違う。
 ・屋根瓦は「笏谷石」で作られている。強風に耐えるたの「重さ」という説明でしたが、些か怪しい。地震には弱く、昭和の北陸地震で倒壊し、復元されている。

 ・狭間や石落としはあるが、防御に重点を居ているとは思えない。もし、ここまで攻め込まれれば『籠城は無理』であっただろう。

 ・内部の広さは1階で40畳、大きくはない。装飾は一切なく、写真映えしない(室内写真参照)。
 ・廻廊からの風景を紹介します。眺望は最高です。
 ・内部階段の傾斜角は70度を越えるという。半端ない角度で、膝の悪い私には大変であった。


明治政府は「廃城令」で全国の城を棄却させている。
武士の反乱を恐れての処置であったのですが、今になってみれば、これほどの悪法はないであろう。
この令で、日本の文化財がどれだけ消えたことか!

全国で、12の木造天守が残っているが、多くは「領民が買い戻し」して残っている。
ここ、丸岡城も廃城令で、入札で払い下げされている。
天守以外がは解体され運び去られたそうですが、三両二分で落札された天守の「解体搬送料が数百両」ということで放置され、後に領民で買い戻されたという。

堀も埋められ、分譲地になったが、せめて内堀でも残っていれな、もっと価値あるお城だろうと思うと、残念です。

それにしても「良き季節」に来たもんです。
満開が過ぎ「散はじめ」でしたが、美しい丸岡城を堪能できました。

天守見学の後は、「歴史民俗資料館」へ
ボランティアガイドさんの守備範囲は「天守のアガイド」で、とても詳しく教えていただいたのですが、歴史好きな私は、こちらも知りたかった。

それは歴史民俗資料館で補うことが出来ました。
来場記念に、写真を1枚!


この後、イベント会場で簡単な昼食をとって「日本一短い手紙の館」へ向かいました。

「日本一短い手紙の館」の由来は、戦国武将・本多重次が、戦場から送った家族への手紙が「とても簡潔」であったことからきている。
 『一筆啓上』とありますが、これは、一筆(手紙)を啓上(差し上げます)という意味ですから、送り主の妻を立てた、敬う気持ちが込められています。
 『火の用心』は、読んだそのままの意味ですが、この時代は建物は木造ですから、火事になると近隣の一帯が全て消失する事も珍しく無く、大変重要な事でした。
 『お仙泣かすな』これは彼の息子の名が、仙千代でしたから、子供を大切にしろという意味ですね。
 『馬肥やせ』これは、馬の手入れを頼むという事で、戦国時代は馬が貴重でしたから、大事な物は大切にしろとの意味でもあります。

とても短い文章ですが、4つのセンテンスだけで必用な事がきちんと要約されていて、しかも相手を思いやる気持ちも込められています。
このように解説されていますが、手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」だそうです。これが、庶民に伝わる過程で、分り易くアレンジされたということでしょうね。
では「何故ここなのか?」は、家康から、丸岡城を領地に貰った最初の武将が本多氏であったことによる。

日本一短い手紙の館で、私の目に入って来た作品はこれ!
思わず涙がこぼれました。感動が思いっきり伝わってきます
私もしばらく「ふるさと」へ行っていません。帰りたくなりました。
これで「+1の旅」は終わりです。
お城までバスが来ていないので、イベントの係員さんに場所を聞いて歩いたのですが、言うほど簡単ではありませんでした。何度も道を曲がりそれなりに距離がありました。
途中、何処にもバスターミナルを示す標識がありません。
何せ「めったに人がいない」ので、聞くのも容易でがありません。3人の方に尋ねて、ようやくバスターミナルに到着。無事に帰路に着けたのですが、車社会で暮らす人達には、公共交通機関でやってくる「歩行者まで気が廻らない」のでしょうね。
私も「幹事役」をやることが多いのですが、気を付けなければいけません。






無事「福井駅」に到着。駅前広場の恐竜を見て「九頭竜」を思いだす。ここでは、恐竜を売り出しているのだ!

福井から、サンダーバードとくろしおを乗り継いで和歌山へ。
  お疲れ様でした!

 旅行後記
初めて北陸へ来たのが20歳代、もう半世紀以上前のことです。金沢で仕事があり、その帰りに永平寺に寄りました。その頃から「+1の旅」をしていたのですね。

地図を見ながら、
 ・丸岡城と豊原寺はお隣同士。争いが絶えなかっただろうな
 ・柴田勝家滅亡の地「北荘」も近い
 ・越前朝倉氏滅亡の地「一乗谷」も近い
 ・永平寺も近い
戦国末期の歴史が、ここにはいっぱいありそうです。楽しみですね!


190412(金)金沢城へ






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