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180630

今回の「+1の旅」の目的地、備中松山城へ行く日です。
生憎、雨が断続的に降る日ですが、土砂降りではありません。岡山駅7:30で、林さんと待ち合わせです。備中高梁駅へ乗り換えなしで行く列車に乗車。約40分の乗車です。
林さんは「城フェチ」で歴史にも大変詳しい方です。1年で体重を40s落としたそうで、少し心配していたのですが「スリムになって快調」だそうです。話題が途切れるこよなく、高梁駅に到着。
駅から見える寺院は、殆ど「城郭」の様式です。ここには行けなかったのですが、地図から見ると松連寺のようです
松連寺(しょうれんじ)は、岡山県高梁市にある真言宗御室派の寺院。山号は東向山。本尊は大日如来。
備中松山城主三村元親が備中兵乱に敗れ、自害した寺として知られている。 現在の寺は明暦3年(1657年)水谷勝隆により、備中松山城の砦の役割を兼ねて創建された。
次に機会があれば、是非行ってみたいですところです。
選んだルートは、
 ・タクシーで八合目にある「ふいご峠」まで行きます。
 ・ここから徒歩で天守を目指します(これ以外の方法はない)。距離は700m、標高差は約100mと言ったところです。平均勾配は、1/7で、結構キツイ道です。
肺気腫で「肺年齢94歳」の私です。歩きはじめれば直ぐにゼイゼイハーハーとなりますが、10分も歩けば肺が慣れるのか?呼吸は普通に戻ります。

帰路は、歩いてふいご峠に折り、シャトルバスで松山城登城口へ、そこから「城下町を歩いて」駅まで行く予定です。

広い意味では、大松山・天神の丸・小松山・前山の4峰から成り立つそうですが、現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、小松山山頂に築かれた近世城郭をさします。

  それでは出発です!
まずは「中太鼓櫓跡」を目指します。

最初に現れた石垣は「上太鼓櫓跡」とありました。どうやら、中太鼓櫓跡は今はないようです


これは大手門跡の石垣です。とてもこの城を「攻めたい」と思えない構えです
この石垣は、大河ドラマ「真田丸」のロケで使われたそうです

大手門を通り、三の丸跡へ向かいます。

厳しいかまえです(歩くのもシンドイです!)。
写真右は「足軽箱番所跡」

黒門跡

土塀


二の丸から見る天守と雲海
山城で「天守」が現存する唯一の城です。雲海は、冬季に見られることが多く、この時期に見られるのは珍しい
松山城の歴史は鎌倉時代からと古いが、現存する松山城は、家康の命で小堀正次・政一(遠州)父子が築いたもの
関ヶ原合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、没収した毛利領のなかで最も東にある備中松山城に西国目付けとして備中国奉行を置き、城を預けました。ここに赴任したのが小堀正次・政一(遠州)父子で、備中松山城が荒廃していたため、当初は頼久寺において政務を執っていましたが、慶長11年(1606)頃から政一によって御根小屋と備中松山城の修築が進められています。この修築の時に描かれた2枚の備中松山城絵図のうちの1枚によると、城の縄張りや石垣はごく一部を除いて後世とほとんど変わりませんが、石垣は数か所で崩落しており土塀もいたるところで崩壊している状況です。建物としては瓦葺の大手門・搦手門・櫓3棟のほか二の丸に草葺きとみられる建物1棟があるだけです。この絵図に描かれた備中松山城は、その荒廃の状態からみますと、三村氏滅亡後に毛利氏が備中支配の拠点として大改築を進めたが、天正10年の和睦によって工事半ばで中断し、放棄されたままとなっていたことを物語るのではないかと考えられます。もう1枚の絵図は、後世の備中松山城とほとんど変わりがなく、修築を進めるための計画図(完成想定図)とみられています。


山城は籠城用で、現存する松山城が戦にあったことはない。普段の政務は麓の「御根小屋」で行われていた。

天守は二層で小粒ですが、内部は想像外に広かった。

無理に「層を重ねる」ことをしなかったので、柱数が少ないことが理由と思われる。
天守の役目は物見櫓だが、もし籠城戦になって「天守に籠る」ことになれば、自害の時間稼ぎをするための施設になる。
松山城天守にも「装束の間」がありました。

天守から見る「雲海」も見事でした。この後、二重櫓を見学して帰路に着きました。

二重櫓
シャトルバスで、登城口まで下り、そこから歩いて城下町へ向かいました。
掘りを形成していた渓流に沿って歩く。ここは、山田方谷の弟子、三島中洲を顕彰して作られた中州(ちゅうす)公園だそうで、なかなか良い風景でした。
ちなみに山田方谷とは、
危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学とも称される陽明学。
その神髄を身をもって実践した『リストラの天才』が、幕末の日本にいた。名を山田方谷(ほうこく)という。
十万両の借財に苦しむ備中松山藩の財政をわずか八年で立て直し、逆に十万両の蓄財をなし遂げたという。


武家屋敷2ヶ所を見学した。
写真は、200石取りの武家屋敷で「2番屋敷」と呼ばれている。
備中松山藩は6万5千石で、武家屋敷を5段階に分けており、2番屋敷は第2ランク(そこそこ上級武士)と考えてよい。ただ、藩によって経済事情が異なるので一概に言えないが、丹波篠山藩の中級武士の屋敷より質素に見えた。
 
頼久寺(らいきゅうじ)
頼久寺は、足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つです。 
その中にある国指定名勝の庭園は、備中国奉行小堀遠州の初期の作庭で(1605年頃)、禅院式枯山水蓬莱庭園です。
午後から別の予定があり、少し気忙しい時間です。境内をチラ見しただけで、残念ながら、お庭はスルーしてしまいました。ここも「次」に取っておきましょう。
 
紺屋町
文字通り「染物の町」だったそうですが、今は1軒が残るのみだそうです。

これで、高梁市とはお別れです。半日ではなく『1日かけて』ゆっくり歩いてみたい城と城下町でした。
昼食もとらず、これで倉敷へ向かいました。

倉敷からタクシーに乗り、萬腹食堂へ向かいました。
ご覧の通り「ちょっと危ない」建てものです。

GAKUTOも贔屓にするというお店で、ここのチャーシュー麺を食べるのが、備中松山城と並んで大きな目的でした。

営業時間は15時までと言うことで急いだのです。お店へ到着したのが13:40だったのですが「本日品切れ」の無情な張り紙がありました。
引きも切らず来店者があるのですが、皆「残念そう」でした。

店主がご高齢で、最近は「休みがち」だそうです。その意味で「次に機会」があるのか?怪しい限りという。食べたかったなあ〜
タクシーを呼び、倉敷景観地区まで運んでもらいました。
15年ぶりの景観地区ですが、私の知ってる街とはすっかり違っていました。溢れんばかりの人で、店舗が増え、落ち着きが消えていました。

歩いて倉敷駅へ向かい、帰路に向かいました。
山口で「大雨」が降っているそうで、新幹線は大混乱。急ぐ旅でもなし、成行きで帰りました。

 180607追記
あれから1週間、訪れた町は「記録的大雨」で、大変な災害に見舞われています。多くの人命も失われているそうで、悲しいですね!皆様、お大事に。


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