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180629

6月28日から山口まで出張。待っていた「+1の旅」のチャンスです。
生憎「天気予報は最悪」ですが、そこは『晴れ男』の名誉に掛けて出撃です。

29日午後からの会議は参加せずとも良いということなので、午前中だけで業務切上げ。目的地へ向かいました。
今回の目的は「備中松山城」ですが、半日余分い時間が出来てしまった。相も変わらず、目的を決めない旅行です。
岡山で下車して、駅前のホテルにチェックインしたのが15時。観光パンプを見ながら「さて?どこへ行こうか」です。

端っこの記事に目がいった。松城址資料館とありました。
さあ〜衝動的な旅行の始まりです。断続的に雨が降り、時に激しくなる。
駅に着いたら、5分後に列車が出るという。
「桃太郎線」に乗って、備前松を目指します。

岡山から18分、備中松到着です。
傘をさして歩くこと10分、あっけなく松城址到着です。
ただ、時間は4時半近くで、史料館は閉鎖。ボランティアガイドさんもいません。
詳しい話が聞けたら、違った感想かもしれませんが…

水攻めで有名な高松城です。天然の要害と言えば「湿地帯」と言うだけで、まったくの「平城」です。城郭規模も大きくはなく、秀吉の軍勢をもってすれば〜力攻めでよかったのでは〜が第1感でした。

城内の一番高い処(本丸)でも、標高7m。そこを標高8.4mの堤で囲ったのです。その遺構が残っているのも面白い。

以下、城フェチの林さんと話したことですが、
■何故、時間をかけて水攻めにしたのか?
毛利側の豪族のかなめ役「清水宗徳」を水攻めにして見せしめしたのだろうとう。この意見に納得です。
■忍城水攻めの遺構はないのに、高松城の水攻め遺構は何故あるのか?
忍城は住民毎籠城し、堤作りに民は参加していない。しかし、高松城は籠城したのは武士だけで、堤は住民が作っている。この差が大きいのではというのが私の意見でした。

駅に着いたら、すぐに列車が来た。このまま帰るのはもったいないので、吉備津で下車。酷くはないのですが、相変わらず「断続的に雨」が続いています。
吉備津駅到着は17時前、曇天で、「日没との戦い」です。

まずは、吉備津神社を目指して歩き始めた。
普段通り、事前調査もせず思いつきの「旅」ですが、記憶が正しければ、ここは『吉備国』の中心地だったはずです。

吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。
吉備は古代、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだったといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。

5世紀に雄略天皇は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。
 ・吉備下道臣前津屋の乱(463年)
 ・吉備上道臣田狭の乱(463年)
「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけた。さらに雄略の死の直後には、吉備稚媛(田狭の元妻で雄略の妃)と星川稚宮皇子(雄略と稚媛の息子)が反乱を起こしたため清寧天皇はこれを鎮圧し(479年)、またしても吉備の勢力を削減させている。
吉備国は消滅したが、吉備津神社は残った。
「祟りが怖い」時代だっただけに、大和朝廷のせめてもの償いであろうか?

吉備津神社に到着。圧倒される大きさに驚きでした。
写真でご紹介します。


本殿は比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)。吉備津神社でしか見られない特殊なもので、吉備津造りとも呼ばれています。
本殿と拝殿は1425年に再建されたもので国宝に指定されています。
また、本殿から続く約400mの美しい回廊は、県の重要文化財に指定されています。
吉備津彦命が矢を置いたとされる矢置石や、温羅(鬼)の首が埋められたと伝わる御釜殿など、吉備津彦命と温羅にまつわる伝説が残っています。
「鳴釜神事」という炊き上げる釜の鳴る音で吉凶を占う神事があります。吉備津彦伝説によれば、釜の下に温羅の首があるといわれ、吉凶をうなり声で占っていると伝えられています。

吉備津造りとも呼ばれる本殿と拝殿


回廊(素晴らしく雰囲気ある回廊でした)

宇賀神社

岩山宮(登りきるとあるのですが、麓の鳥居でお参りしました)

左から、春日宮 大神宮 八幡宮

吉備津神社の参拝を終えて、岡山県古代吉備文化財センターを目指すことにしました。

細谷川に沿い、中山の吉備史跡県立公園を歩きました。猛烈に蒸し暑く、
 ・標高差175m
 ・1.1qの道のりのキツいこと!

途中寄り道で、更に階段を上り「御料」へ行きました。
中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)は、岡山県岡山市北区吉備津にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として第7代孝霊天皇皇子の大吉備津彦命(吉備津彦命)の墓に治定されている。
なんとも立派な御料です。
どう考えても、吉備国の御料ですが、征服者の大和朝廷二よって祀られてきた。墓の主は「どんな気持ちなんだろう?」そんなことを思ってしまった。

岡山県古代吉備文化財センター
岡山県古代吉備文化財センターに到着したのが18時、残念がら見学時間を過ぎていて、学芸員氏達は帰り支度でした。出来れば、吉備国の話を聞けたらと思ったのですが、それは「いつの日か」と言うことになりました。
学芸員氏に、ここから「吉備津彦神社へ出る道はないか?」とお尋ねしたのですが、「吉備津神社へ戻ってから吉備津彦神社へ向かう方が良い」と言うことでした。

ここから、吉備津神社経由で吉備津彦神社へ向かうのは、3.2qの道のりです。いよいよ日没との戦いです。
吉備津神社まで下り、そこから先は緩やかなアップダウンの連続でした。
鼻ぐり塚を通り、ひたすら早足で歩く。

松城址往復を含め、吉備津彦神社が見えた時は、既に7.3q歩いており、水分不足(携行したペットボトルは空で、自販機もない)で、ややお疲れでした。


岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓には備中国一宮・吉備津神社が鎮座する。当社と吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。
流石に薄暗くなってきました。吉備津彦神社を後にして『吉備一ノ宮』駅へ向かいました。残りは駅まで0.4q最後のひと頑張りです。
駅へ着いて、列車が来るまでの待ち時間、駅舎の「桃太郎伝説」を読みました。
出雲は『国譲り伝説』を残して滅ぼされたが〜吉備国にはなんにもない〜と思っていたが、桃太郎伝説こそが、吉備国の滅亡を残した記録でした。
 ・鬼:吉備国
 ・桃太郎:大和朝廷
 ・鳥(鳥取のこと):恐らく出雲で寝返ったもの
 ・犬:大和の派遣軍(今も「犬飼性が多いという)
 ・猿:大和の派遣軍(今も「猿飼性が多いという)

吉備津神社は滅ぼされた側、吉備津彦神社は滅ぼした側の痕跡でした。そんなことも知らず、知識のないまま、駆け足で廻った『吉備路』でした。

岡山駅前へ戻り、ファストフード夕食。ビールとアテと、翌朝の食物をコンビニで買ってホテルへ帰る。シャワーを浴びて、ビールを飲んで「オヤスミ」でした。

吉備路紀行‐2『備中松山城』へ







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