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181109

今回の「+1の旅」の目的地、松江城です。

8日の宿泊地は岡山。翌朝は「早立ち」の予定なので、駅近でホテルを探しました。予約が1週間前であったこともあり、思ったホテルがない。何よりも高い!
結局、1泊素泊まりで12000円のホテルグランビアが一番安かった。名前の通り「駅上のホテル」です。

山口での会議が長引き、チェックインできたが21時、駅上のホテルで助かった。
高いけど「広い部屋がご用意できます」と言うが、泊まるはは私一人で「無駄に広い」としか言いようがない。狭い部屋で良いから半額にしろと言いたかった。

チェックイン後、駅ビルで酒を呑んで(写真下)から就寝
今回の旅行費用は、
 ・宿泊費 12000円
 ・岡山―松江往復運賃(特急券とも) 8500
 ・松江滞在中の費用 約10000円
  (昼食代・入場料・移動費・土産代)
如何にバランスが悪いか分かる。
朝食は、駅ビル内のマクド(5:40開店)
マックで行列して、朝マックで食事。窓の外ではバスに整列乗車、日本人は行儀がいいね!

松江へは、特急やくもで159分。東京大阪間に等しい。ここでも整列上して、8:04出発。

今年7月に訪れた、吉備高梁を通過。あのときの翌週には高梁川が大洪水、流域に膨大な被害をもたらせた。
災害の爪痕を感じさせない、高梁川に沿って列車は進む。今年何度目かの「紅葉」を、車窓から楽しむ。


途中から、川の流れが変り「分水嶺を越えた」ことが分かる。中国山脈を横切る旅の面白さです
松江到着。
まずは、観光案内所へ行って、地図と情報を入手。
50円で乗り放題のバス「レイクライン」が便利だという。20分間隔でワンウエイで周回しており、1周50分、20分間隔で運行されている。

思えば「忘れ物」を受け取りに来たような旅です。
山陰の名所、大山・皆既温泉・足立美術館・宍道湖・出雲大社・鳥取砂丘など、主なところは廻っているのに、松江だけが抜け落ちていた。

松江の存在に気付いたのは、松江城が国宝指定されたことからです。
松江城天守の国宝指定は、平成27年7月8日。全国に5城ある国宝の天守で最後の指定で、まだ新しい。
国宝指定を受けるまでの紆余曲折が「TVで紹介」されたことからでした。国宝の指定を受ける条件は厳しく、建築時期の証明も大切で、1611年の竣工を証明する資料探しに、郷土の歴史家が奔走したそうです。
松江城は『四重五階・地下一階付・本瓦・南面附櫓一重・本瓦葺』で、7番のバス停で降りると見えてきました。



松江城は、浜松から入封された堀尾吉晴によって建設された。
しかし、堀尾3代で後継ぎがなく、京極氏に引き継がれる。だが、京極家の支配も3年で終わる。

江戸期の大半を治めたのは松平氏。とくに有名なのは、
松平 治郷(まつだいら はるさと)は、出雲松江藩の第10代藩主。直政系越前松平家宗家7代目藩主。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。
不昧侯は「放蕩大名」という説もあるが、郷土史家の調査で、借金大国出雲の経済を立て直した「名君」とされている。
不昧侯が蒔いた種は、今も松江に根付き、大きな観光資産となっている。

明治期の廃城令で、棄却の危機に会う。
明治8年広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった。
※当時米一俵が3円弱といわれた。
篤志家がいなければ、国宝はなかったわけで、それだけ松平家は慕われていたのだろう。

天守見学は、ボランティアガイドさんをお願いしています。時間は2時からで、それまでは城下町の見学です。

松江城は、宍道湖の水を取り入れて「掘り」を形成している。堀の全景が残されている珍しい城下町で、堀川を遊覧船で巡ることが出来る。
乗船は50分で「宍道湖から見る天守」もあるのだろう。
今回は時間の制約がありスルー(残念)

北惣門橋
お城と家老屋敷(現:松江歴史館)を結ぶ重要な橋だったそうです。
松江歴史館(後ほどしっかりご案内)を過ぎ、堀川を左に曲がれば「塩見縄手」です。上級武士の武家屋敷があった場所で、今も町並み保存されている。
塩見縄手に入り、堀川を見る。正面の橋が「北惣門橋」で、左手は家老屋敷(現:松江歴史館)です。

お城の周りを半周歩いたのですが、天守の全景が見える場所がない。
創建当時は、威風堂々と見えたであろうが、350年経った今は、松の樹が大きくなり、折角の風景を隠してしまっている。

塩見縄手の武家屋敷
公開されている武家屋敷へ入ってみました。大きなお屋敷で、立派な庭もある。これで、500〜1000石の中級武士の家と言う。

各地のお城へ行くと、併せて武家町も歩くようにしている。
武家屋敷の大きさは、「分母(石高)に関係する」と言うのが私の感想です。

松江松平家は18万6千石、これに隠岐14000石も預かっていた。松平家の分母は20万石で、それに見合う武家屋敷であろう。
松江名物数々あれど『蕎麦』は外せない。
武家屋敷の一角にある「八雲案」で昼食。
メニューが良く分からず、適当に頼んだらこれが出てきました。
 ・かも南蛮蕎麦
 ・割子蕎麦
実は割子蕎麦をたくさん食べたかったのですが、ちゃんと尋ねるべきでした。
どちらも美味しい蕎麦でしたが多すぎた。

つい先日の、会津西街道(別名蕎麦街道)と、味も風味も違いましたが、どちらも〜蕎麦が旨い!〜
パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。
ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、1890年4月に日本の土を踏みます。
896年には松江の士族の娘、小泉セツと正式に結婚し、日本に帰化。三男一女に恵まれます。著作家としては、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺しました。
小泉八雲記念館前(写真右)のお店で、土産の「葛湯」を購入。ついでにソフトクリームで休憩。

ちなみに、記念館はスルーしました。
塩見縄手を終わり、堀川に沿って1周するか、それとも場内を歩くか?ちょっと迷いましたが、周回コースには時間不足と判断した。
写真正面に見える稲荷橋を渡って「へるんの小径」へ入りました。
 写真は新橋から
稲荷橋を渡れば、ここが「搦め手」になる。
写真は「へるんの小径」ですが、意味が分からない。
ひょっとすると「甘党の店」の名前かも知れない。

城山稲荷神社
1638年、家康の孫である松平直政が松江に来たとき、枕元に一人の美しい少年が現れたという。その少年は「私はあなたを全ての災厄からお守りする稲荷真左衛門です。城内に私の住む場所をお作りくださるなら、城内の建物はもちろん、江戸のお屋敷まで火事からお守り致しましょう」と告げて消えた。そこで直政は城内に稲荷神社を建てたと言われている。
小鳥の鳴き声も聞こえ、良い雰囲気でした。
護国神社
明治期に全国に建立された護国神社。
松江の護国神社では、23000柱が祭られているという。大航海時代の植民地から我国を守り、戦いに倒れた先人たちに、感謝の気持ちを伝えました。

ここで、北惣門橋を渡り「松江歴史館」へ向かいました。

松江城は、」初代藩主堀尾忠氏が若くして逝ったため、開闢の祖「吉晴」が息子の遺志を継いで、亀山に建設した。
その際、亀山を一部を開削(写真右:赤い四角部分)して、松江城を平山城に仕立てあげている。開削で出た土は、宍道湖を埋め立て、新たな城下町と活用された。

  (レゴで作られた天守)

財政赤字に悩んだ松平家は、7代藩主「不昧公」によって健全財政への家事を切る。幕末には「裕福な藩」となり、江戸時代の人口増が1%なのに対し、人口増加率が30%を超えたという。裕福でなければ「絶対に人口は増えない」分けで、不昧公が名君と言われるゆえんです。

不昧公は茶の世界に傾倒し『不昧流茶道』を立てる。それだけに、城下では茶の湯が盛んで、必然的に「和菓子が発達」した。

松江歴史館では、和菓子の実演販売が行われており、私は「津田かぶ」をお願いし、煎茶で頂きました(700円)。家には、クール便で和菓子を送りました。

お茶を飲みながら、珍しいことに気付きました。
正面にある建物の棟が、瓦ではなく凝灰岩で作られていました。
凝灰岩はこの地方で最も手に入り易い「石」で、城にも多用されていました。
また、天守の木材の多くは「松」だそうで、地産地消が徹底されたようです。

これで、城下町散策は終わり。
時間も14時が近づいてきたので、ガイドさんと落ち合う場所へ移動です。

ボランティアガイドさんには本丸のご案内を頂きました。

階段の右側は「野面積」ですが、左側は「穴太積」で石垣の高さは、塀も含めて15m。
恐らく、野面積でこれだけ積み上げるのは無理だったのでしょう。
右側の黄葉は「なんじゃもんじゃ」の樹、桜がすんだ後に「白い花」を咲かすそうです。

松平家によって作られた、家康を祭った「東照宮」がありました。全国の東照宮を見てきましたが、漆塗りも彫刻もない「地味な東照宮」は初めてでした。華美を競うことなく質実剛健な家風だったのでしょう。

洋館は、明治天皇をお迎えするために造られたそうですが、結局は御幸はなく、後に、大正天(当時は皇太子)のお泊りがあったそうです。内部はほぼ「和風」で、往時の大工の苦労が偲ばれます。
松江城の外壁は「下見板張り」と説明されているが、それは間違い。
下見板張りなのは「石落とし」の仕掛け部分だけです。写真のように「黒壁」に見えますが、白い漆喰の上に、下地を組んで「雨覆いの厚板」を貼り、それが黒く塗られている。
本来なら、姫路城同様に「白鷺城」なのです。漆喰が風雨にさらされ痛むのを防ぎ、メンテを減らすための工夫だと思う。

地下から入り、望楼のある階まで6層分を「傾斜角50度の階段」で往復。お陰で太ももが痛い(望楼からは宍道湖が良く見える)。

天守のシャチ鉾は、多くは金属製だが、松江城では木製に銅板貼り。ここでも見栄は捨てている。
天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められているものがある。これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている。
内部の柱も、説明ではこうなっているが、これは綺麗ごと。全て「太い柱をそろえる」ことの支出を抑え、強度を確保するためのに、集積材にしたのだろう。これは現代も受け継がれている技術で、正直な説明の方が感銘を受けるように思う。

大坂夏の陣を目前に控えた築城だっただけに、実戦向きの城作りであったであろう。随所に「質実剛健」さが見えるお城でした。

不思議なこともある。
籠城戦は、援軍が期待できてしか成り立たない。とは言え、外堀内堀を破られ、二の丸も落ちれば「もう後がない」のが常識です。本丸の天守とは「領主に自刃の時間を稼ぐ」場所が普通だと思う。
なのに、松江城にはその前提がない。天守の階段は「桐材」で作られており、1階に侵入されても階段を引き上げて、2階以上を「塞ぐ」工夫がされている。勿論、最上階に「自刃の間」などない。何処までも「生きる」ことに執着した作りである。
ここには「潔く死ぬ」と言う思想がない。これこそが戦国大名の矜持であろうか!

これで「+1の旅」は終わり。家へ帰ることが出来るリミット時間より1時間早い終了でした。

特急やくもに乗る前に、銘酒「おろち」と名物「鯖の塩辛」を購入。ところが、この鯖の塩辛「辛いのなんの!」しょっぱくて食べられたものではない。お酒だけ飲み干しました。

本日は、松江往復と、新大阪・和歌山までの移動で『9時間の乗車』を予定していましたが、阪和線の人身事故で1時間の遅れ。結局10時間も乗車。もし、リミットまで現地にいたら帰宅できないことになっていました。









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