狭山池(大阪狭山市)に「ツクシガモ」が入ったというので、出かけることにしました。
私もようやく気持ちが吹っ切れて、狭山へ向かいました。
大阪狭山は20年以上暮らした地です。
妻が突然死した後、ここにある「あまの街道」を歩くようになり、精神の静謐を維持できました。
あまの街道は、大阪狭山市と堺市の市境にある尾根道です。5世紀、大和朝廷の官製陶器工場があった場所で、当時は「陶器山」と呼ばれていたようです。 |
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陶器山から女人高野・天野山金剛寺に通じるこの道を、豊臣秀吉が「天野街道」と名付けました。
近代になり、ニュータウンが作られるようになりました。
・堺市側は
「泉北ニュータウン」
・大阪狭山市側は
「狭山ニュータウン」
そして、市境の尾根道が取り残されたのです。
今から20年ほど前に、この道を「市民が散策する道」として整備し『あまの街道』と名付けられました。
コナラ林が続く道で、あと2週間もすれば「新緑が美しい季節」になります。
早くも、ミツバツツジが咲きだし、雪柳に似た小さな白い花も咲いていました。
あまの街道を歩くようになって目立ちだしたのが、沿道の宅地開発でした。
あまの街道の「自然を守ろう」と、NPOを立ち上げて、保護保存運動に乗り出したのですが、見事に「一人相撲」で終わりました。
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遠方に住む方から賛同を得たのですが、肝心の「地元の人たち」が、運動に立ち上がることはありませんでした。
残したかった森は、今は「薄皮1枚残して」住宅が立ち並んでいました。
結局、夢破れて「狭山を去る」ことになりました。
私にとって、この地は「ほろ苦い思い出の地」です。
あれから11年。やっと、訪問する気になりました。
遠方から参加してくれた一人が今の家内です。NPOの成果はこれだけですが「充分だろう」と言われそうですね!
NPO運動では、陶器山の由来をもっとPRすべきだというものもありました。
ようやく発掘が行われサインが立っていました。
ただ、須恵器を焼いた「登り窯の復元」までは至っていませんでした。 |
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あまの街道の起点に、高層マンションがあります。
ここで亡妻と17年間暮らしました。妻が逝った半年後に自己破産、この住居を失いました。
何かと思い出の多い場所で、やはり再訪には時間が必要でした。
マンションの最上階(17階)から見える池で、ある日「あの鳥はなんだろう?」と思ったのが「野鳥に興味を持った」始まりでした。
まったく「バカの壁」で、自分がとてつもなく「自然豊かな場所」に住んでいたことに気づいていなかったのです。
野鳥が趣味になって2年後に、妻が突然逝きました。まるで「私のその後」を見据えた神の采配としか思えませんでした。
この後、狭山池へ向かいました。約5km1時間の歩行でした。 |
■狭山池
狭山池は「日本最古のダム」です。
何度も「大改修」を加えて、今も重要な灌漑ダムです。
冬で一番の渇水期です。
冬鳥の来訪が多い池ですが、多くはもう「北へ帰った」ようです。
平成の大改修でも、野鳥の会の保護運動で残された「湾処」があります。その湾処にツクシガモがいました。飛来したのは1羽だけだそうで、大阪では珍しい野鳥です。
では、狭山で出会った野鳥の紹介です。 |
ツクシガモ
コガモ
ハシビロガモ
コゲラ
イソヒヨドリ |
これで狭山は終了。昼食後、浜寺公園へ向かいました。
■浜寺公園
ここには超レアな「キバラガラ(恐らく迷鳥)」が入っています。コガラくらいの小さな野鳥で、ネットフェンス越しの撮影です。おまけに、捕食するのは「秒単位」でまったくじっとしてくれません。どなたも撮影には手こずっているようです。 |
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