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■妙法寺/日蓮宗
宗派以外にネットで調べられない。従って、創建も縁起も分からない。
写真で見るように、お寺とは気づかないほどさっぱりしている。
ガラス越しに内陣を撮影したが、祭壇も非常にシンプルでした。
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■法泉寺/曹洞宗
当山は元亀元年(1570年)に豊臣秀吉公に仕えた戦国武将桑山重晴氏によってお建て頂き
開山(一世)に一傳岱純大和尚様を招き本尊様に十一面観世音菩薩をお祭りしております。 |
ガラス越しに内陣を撮影しました。
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■本光寺/日蓮宗 |
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Wikipediaより
・本光寺(ほんこうじ)は、和歌山県和歌山市吹上にある日蓮宗の寺院。山号は法性山。旧本山は京都妙覚寺、親師法縁。赤門寺として知られる。
・天正19年(1591年)妙覚寺の日典を開山に創建。元和3年(1617年)日栄が現在地に移転し中興する。昭和20年(1945年)和歌山大空襲で諸堂を焼失した。
・山門 元禄14年(1702年)建立。赤門として知られ空襲による焼失を免れた。 |
ガラス越しに内陣を撮影しました。 |
公式HPより
和歌山西国三十三カ所観音霊場第十番
■大宝山恵運寺/曹洞宗
・創建:1619年~1621年
・開山:天厳(岩)玄達
開基:山本弥三郎茂成(長昌公)牟呂城城主天眞院星安長昌居士
初代藩主徳川頼宣公と紀州徳川家の武運長久、廣厳無窮の安泰と山本家の顕祖長昌公の菩提を供養する為、紀州藩重臣山本圖書正春が禅寺を建立。 |
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ここには「まちなか観光案内所」がありました。ただ、今は新型コロナで開店休業中。
かって入って、スタンプを押してきました。 |
■三光寺/西山浄土宗
Wikipediaより
・三光寺(さんこうじ)は、 和歌山県和歌山市吹上にある西山浄土宗の寺院である。
・文亀2年(1502年)福生大徳より創建された。当時は真言宗の寺院だったが、途中から西山浄土宗に転派された。 ・創建時は和歌山市宇治の前島に建立され、その後元寺町に移り、寛永17年(1640年)に徳川頼宣の命により、現在の寺町に移築された。
・和歌山西国三十三箇所第3番札所となっている。 |
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■窓誉寺/曹洞宗/千手観世音菩薩・ 「お菊地蔵祀る寺 」 |
和歌山西国33ヶ所より
窓誉寺の開創は、元和5年(1619)に徳川頼宣公が紀州に入封した際、駿河国(現在の静岡県)の窓泉寺二世、瓢外法察(けんがいほうさつ)大和尚を請せられ共に入国し、前藩主浅野公の城内砂之丸の館を下賜され、本堂その他の伽藍を創設し、頼宣公より高僧と仰がれ「誉」の字を拝領し、窓誉寺の開山となられた。もともとは窓養寺という寺名であったが、ある夜瓢外法察大和尚がお葬式に行くと、急に暴風雨となり、稲光、雷鳴が轟き、空には火災車が現れ、お桓(かん)を引っ張っていこうとした。大和尚は、水晶数珠を押し挟んで合掌し一喝すると、嵐は収まり、天空には明るい月が出た。その話を頼宣公が聞き、「それは名誉なことである」と「誉」の字を賜り以後窓誉寺となり、その時の数珠と袈裟は現在でも秘蔵されている。
また窓誉寺には、番丁皿屋敷で有名なお菊の皿が残っている。これは、青山主膳の伯母エイが当時の窓誉寺住職にお菊の供養を頼み、青山家家宝の皿を渡したとのことである。(お菊の皿は非公開)。境内には供養の為の「お菊地蔵」がまつられている。
本堂は文化年間当山十八世祥山角麟(しょうざんかくりん)大和尚が坐禅堂を本堂にして再建したが、平成3年に新築された。 |
その本堂の天井には、龍門山にちなんだ勇ましい龍の絵が描かれているそうですが、小さな小窓から撮影したので、天井が切れている。悔しい! |
■大恩寺/宗派:浄土宗 |
某個人のブログより
・開創:開創は不詳であるが、元和年間(1615~24年)に紀州藩主の命によって現在地に再興されている。
・中興:聖誉 1615~24年 ・本尊:阿弥陀如来
小原桃洞墓:県指定史跡
薬草を含め薬になる天然自然の産物を研究する本草学者・小原桃洞は和歌山藩の藩医で、本草局のリーダーとして種々の書物を著すと共に、多くの人材を育成した江戸時代後期の本草学者である。小原桃洞の菩提寺が大恩寺である。 |
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寺町の寺院の墓地は立派だが、大恩寺の墓地はひときわ見事でした。その一角に、小原桃洞先生の墓がありました。 |
■護念寺/西山浄土宗/准堤観世音菩薩・「古い歴史と現代イベントの融和した寺」 |
和歌山西国33ヶ所より
第11番護念寺の草創は、室町時代後期の永正5年(1508)にさかのぼる。現在の和歌山市宇治の地に、雲山意春和尚により草創され、寺号を常福寺といった。天正13年(1585)和歌山城築城の際、城代桑山法印により城の鬼門除けとして当時の松屋町に移建され、寺号を護念寺と改めた。寛永17年(1640)藩祖徳川頼宣公(南竜公)の命により現在地に移建された。当時は寺社奉行直支配の格式で幕末に至ったそうである。
しかし、県下屈指の念仏大道場とされてきた護念寺も戦災にあい、桑山法印が熊野詣の帰途で得たといわれる、御本尊の阿弥陀如来像も焼失してしまう。昭和39年になって本堂が再建された。現在境内には本堂のほかに、三十三観音像を安置する観音堂や四本柱の八方に一枚板の菊花の浮き彫りがはめこまれた珍しい鐘堂がある。
現在護念寺では月1回の「さあがんばろう会」という法話会を開くほかにも、現代的イベントを行う寺として有名で、平成9年には、何と本堂の阿弥陀様の前でポップスのコンサートが行われたのである。他にも、映画上映会や講演会を開くなど大変精力的に活動なされている。 |
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鐘楼に彫刻の模様がありました。こんな装飾付きの楼は珍しいでしょうね!
この後、ご住職のご厚意で内陣を拝見させてもらいました。脇陣を持ち、ひときわ見事でした。 |
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ここで大きくUターンです。
徳川家御廟を訪れるためです。
日赤から、直でこちらを目指せばこんな遠回りにはなりませんでした。やはり、突然思い立っての行動にはロスが多いですね!
■天理教名草分教会
(写真右) |
■報恩寺/日蓮宗
報恩寺縁起(公式HPより)
報恩寺は、もとを要行寺といい、慶長14(1609)年に建てられたとされています。
その後寛文6(1666)年に紀州徳川家藩主徳川頼宜公夫人 遥林院の追善供養の為、息子である光貞公が要行寺を報恩寺と改め、一ヶ所本山として寛文9年に小西檀林化主日順上人を招き、寺領250石を寄進し開山導師としました。日順上人は朝廷から権大僧都の位を賜り、参内を許されていました。
以来、当山は紀州徳川家代々の菩提寺として、また和歌山城下唯一の『武士寺』として親しまれてきました。最盛期には末寺6ヶ寺、総面積は約25,000坪を有する紀州随一の日蓮宗寺院として栄えました。
ところが、明治元(1868)年の勤王運動により諸堂が破壊され、時の貫首で当山第17世本如院日偵上人が左幕藩士に惨殺されるという悲しい事件がありました。近代にいたっても、昭和20(1945)年7月の第二次世界大戦時の和歌山大空襲により伽藍は焼失、当山第25世南妙院日環上人によって再興されるも、昭和36年9月には放火により本堂焼失という厄災が続きました。
今日の本堂は、平成11年に大改修・落慶したものです。しかし、焼失を免れた紀州徳川家御廟所や戦時中の供出を免れた鐘楼は和歌山市指定文化財(史跡・工芸品)として、脈々と受け継がれてきた紀州の歴史を物語っています。 |
最も内陣を拝んでみたかった場所ですが、叶いませんでした。
外から参拝は済ませたのですが、扉は固く閉ざされており、やっぱり「敷居が高い」感じがしました。 |
参拝後、さらに奥へ進み「徳川家御廟」へ |
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再び、無量光寺の方へ戻り、前編で見落としてしまったお寺へ回ります。青いアンダーラインは前編で回ったお寺です。
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■感応寺/日蓮宗
Wikipediaより
元和5年(1619年)、日陽が、徳川家康と側室、養珠院の子である紀州徳川頼宣の外護により駿河感応寺を分寺し創建、勧請開山は立正大師日蓮の高弟(六老僧)の日向、中興に日朝。 |
感応寺は、広大な寺領を持っている。
本日歩いた中で最大の墓地を有しており、二つの塔頭もある。更には、神仏混交時代の名残と思われる神社もあった。 |
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神仏混交時代の名残と思われる神社 |
感応寺塔頭「一乗院」 |
感応寺塔頭「本行院」 |
これで、寺町ウオーキング後編も終わりです。
この辺りは交通の便が悪く、バスも走ってはいない。家路につくには「歩く」しかない。途中昼食を食べ、更に「畑作業を済ませて」から家へ帰りついた。
夕方に日赤病院は行く前に「片男波海岸探鳥」を行い、この日の20606歩でした! |