ちょっとそこまで

 200626(金) 寺町ウオーク

和歌山に住みだして11年目になります。昨年まで「軸足が大阪にあったこともあって、まだまだ「知らない和歌山」だらけです。今日は、畑作業が早く終わったので、かねてから興味があった「寺町ウオーク」に挑戦です。

事前に資料が欲しいと思ったのですが、これが大変です。
市の観光課に「寺町ウオーク」を特集したページがありません。
当然、ウオーキングマップもありませんし、寺社の縁起や由来を紹介した資料もない。個人が残しているHPかWikipediaを探すくらいしか方法がなさそうです。

城下町に「寺町」を持つことは多い。
城郭に近い場所にあることが多く、寺町が「重要な防衛線」を担っていたのであろう。
和歌山の寺町も、お城の南側に隣接している。位置からみてもそうだし、地形的に丘陵地(岡の宮)にあって、防衛線であったことが容易に想像できる。

ただ、和歌山の寺町が往時の姿を偲ぶには大変です。
寺町の中心地(丘陵地の高いところ)に、和歌山市水道の拠点「和歌山真砂浄水場」があり、これで完全に寺町が分断されてしまった。
また、僅かに読むことが出来た縁起で、明治期の廃仏毀釈でも大きな打撃を受けたようです。恐らく、寺社が「敷地の切り売りで凌いだのであろうことで、寺町と言う名はあっても「住宅との混在地」になっていた。

グーグルマップで概ねコースを組み立て、今日は浄水場の東半分を歩いてみました。
ただ、もう「猛暑」です。家から歩けば、寺町まで3.5kmほどある。これだけでバテてしまいそうで、和歌山保健所まで、家内に運んでもらった。
本日回ったのは、無量光寺⇒延壽院⇒車坂稲荷神社⇒禅林寺⇒珊瑚寺⇒刺田比古神社⇒松生院の7寺社です。
共通したこともありました。
 ・縁起や由来を示す表示がほとんどない
 ・お賽銭箱がほとんど無かった(お賽銭を用意していったのですが、あまり使う機会がなかった)
 ・内陣を公開しているところがなかった
そんな分けで、ちょっと「欲求不満の寺町ウオーク」でした。
無量光寺
 ・山号 里宮山
 ・宗旨 浄土宗
 ・本尊 阿弥陀如来
 ・創建年 1829年
 ・開基 本辨、開山は徳本
 ・正式名 里宮山寿経院無量光寺
 ・札所等 和歌山西国三十三ヶ所 第8番

江戸時代の1829年(文政12年) 、紀州藩10代藩主徳川治宝の命により、和歌山県日高郡出身の大行者徳本を開山、本辨を開基として京都の法然院を模して創建された。

治宝は当寺を念仏道場として定め、堂塔を建立するなどして庇護した。

明治14年(1881年)に全山焼失し、規模が縮小されて現在に至る。

境内に置かれた首大仏は大福寺から移された物で、「首から上の願いを叶える」と云われ、多くの受験生らが参詣する。
※境内に首大仏以外の説明はなく、開祖(徳本行者)の説明もない。
※また、賽銭箱もないので、お礼なしで「お願い」だけしてきました。
※お堂は開いておらず、本尊の阿弥陀如来を拝観することもできませんでした。
と言うことで、Wikipediaの情報をご紹介する以外にない。ただ、境内はご覧のように、美しく整備されていました。
 首大仏
初代の大仏(座像、高さ約5m)は大福寺に江戸時代享保年間に建立された。現在の大仏は2代目で、天保6年(1835年)の初代大仏火災焼失後直に初代像の銅を使用して制作され、天保11年7月24日(1840年)に同じく大福寺にて開眼法要が営まれたものである。

本来、大仏は全身像(座像)が基本であるが、ここの大仏は首から上の部分しかない。首だけしかない理由は大福寺の経済力にあったとされ、御首に身体を継ぐこと幾度か検討したが巨額の費用がかかるために断念したとされる。首大仏像は3メートルあり、若し座像となれば像高約13mと推定される。

大福寺は安政元年(1854年)に発生した安政大地震で全壊し、明治41年(1908年)には廃寺となったため、首大仏は本山にあたる無量光寺に移された。現在、当大仏は「首から上の願いを叶える」と云われ、多くの受験生らが参詣する。

延壽院
(西国33ヶ所巡りのHPから)

 ・御本尊  大日如来
 ・開創  元和5年(1615)
  隆晶和尚開山。
 ・第6番 松王山 延壽院
 (新義真言宗)
如意輪観世音菩薩
「武家の守り本尊から合格祈願神へ」

第6番延壽院のふるさとは、遠く信州の諏訪郡になる。元和年間、隆昌和尚によって和歌山に移され、当初は広瀬大橋の川端に堂宇が建立されたという。さらに明暦2年(1656)に現在地に移建された。現在は、通用門が横手にあるが、山門がちょうど桐蔭高校のグラウンドの塀と向かい合っており、グラウンドの生徒の声が聞こえたりする。

 境内には本堂のほかに、大師堂・摩利支天堂・地蔵堂の三つのお堂がある。中でも摩利支天堂は古くから紀州徳川家の信仰篤く、武家の参詣が絶えなかったようである。摩利支天は、元来武士の守り本尊とされ、いわゆる武運長久を祈願する神様と考えられていたようで、尚武の神として武士やその家族の参詣が多かったようである。摩利支天を祀っている寺院は珍しいそうだが、なんと現代では、武家にかわり受験生やその家族の合格祈願神となっているようで、合格祈願に県外からの参詣も多いそうである。
 また当延壽院は和歌山西国三十三ヶ所の事務局の方を担当されている。

寺院としては、無量光寺に負けると思ったが、何よりも凄いと思ったのは「塀」です。
この長さはどうだ!立派に防衛線になったと思う。
 追記
後で分かったことですが、長い塀の半分は、今は名しか残っていない「大泉寺」の敷地でした)建物はなし。

本殿正面に山門があった。本殿のガラス引き戸から内部(内陣)を写させてもらった(無許可です)。できれば、仏様をまじかに仰ぎ、お願いがしたかった。

※ここでも縁起や由来を説明するものはなかった
※しかし賽銭箱はあったので、コインを入れてお願いしてきました。

車坂稲荷社
 (個人のHPから)
江戸時代、車坂稲荷社は大智寺の境内(今の水道道の中央保健所東側の砂丘頂上)にありました。
人々は、願掛けをして叶うと鳥居を寄進したといい、坂から社頭までの間には、朱色の鳥居が2列で数千基立ち並んでいたようです。
京都の伏見稲荷の鳥居のような感じだったのでしょうか?今はそんな風景の鳥居が見れないので残念です。しょぼん
稲荷社は大智寺が大立寺に併合された明治初年に、車坂南側の砂丘上に移されています。
稲荷社は車坂に移された時点で、この規模だったのだろうと思います。残念ながら「赤い鳥居が連なる」風景はなく、小さな稲荷社でした。
ただ、ここでも「奇麗に手入れ」されており、いまも寺町を守る人が多いのだと思う。
※縁起や由来はなかった。小さな社の前に金属製の賽銭箱があり、お願いしてしてまいりました。

寺町ウオーク(番外)
遅ればせながら、少しマシな地図を見つけた。
それでも、記載のない寺院も多く追記した。
 ・赤線が、昨日訪問した寺社
 ・青線は未訪問
このほか、この地域にはキリスト教教会が3ヶ所ある。
これらが1枚に記載された地図がないことでも、重要視されていない「寺町」であることがうかがわれる。


寺町を南北に分断するのが「寺町通り」です。
寺町通りは「谷筋」で、攻め手がここを通れば、両側の丘陵地から攻撃を受ける。これも見ても「選ばれた地」だと思う。

禅林寺
グーグルマップでは表示されない禅林寺。
石碑がなければ見逃すところでした(それでも、さらに奥にある感応寺を見過ごしてしまった)。

(西国33ヶ所巡りのHPから)
 ・御本尊 釈迦牟尼仏
 ・開創 寛永元年(1624)紀州藩初代藩主徳川頼宣公の命により夾山禅師の開基。
第5番 南嶽山 禅林寺
(臨済宗)
開基は夾山(かっさん)禅師で、駿河(現静岡県)の人である。紀州徳川藩初代藩主徳川頼宣公が、駿河の国より入封した際、随従して来たと思われる。かくして頼宣公の命により、寛永元年(1624)に創建される。
その昔「原見坂」と呼ばれていた道より見上げる山門は禅寺らしい威厳があり、約400年の歴史の重みを今に伝える。山門をくぐり境内に入ると、天保8年(1837)に再建された本堂が見えてくる。本堂に安置されている御本尊「釈迦牟尼仏」は和歌山市文化財に指定されている。(昭和42年、和歌山市指定)。
先にふれた山門前の「原見坂」には、昔話が残っている。徳川家の前の紀州藩主浅野家の時代に、浅野家の若侍が、原見坂に小さな五輪塔を見つけ草花を手向けたところ「仙の前」という美しい娘の亡霊を呼ぶことになり、若侍はその亡霊に魅入られてしまい毎夜原見坂に出かけてはその亡霊とたわむれるという昔話である。
また墓所の南側奥には、幕末から明治にかけて迫害され殉教したキリシタンの合同墓も建っている。

谷筋にあたる「寺町通り」を見下ろす位置に禅林寺はあります。
山門を見上げても、そのまま「砦」にはなりそうです。

訪問時、本堂から朗々と読経が聞こえてきました。
是非、内陣を覗いてみたかったですねえ~

※ここも賽銭箱はなし。お願いだけしてきました。



珊瑚寺(西国33ヶ所巡りのHPから)
 ・御本尊  聖観世音菩薩(秘仏)毎年7月最後の日曜日に開帳される。
 ・開創  天正年間、桑山法印開基にして、南陽和尚開山。
第12番 仙境山 珊瑚寺
(曹洞宗)
聖観世音菩薩
「庶民の情が伝わる安産祈願の寺」

元々珊瑚寺は現在の和歌山市和田にあって、「三五寺」と号していた。天正13年(1585)の太田城落城ののち、紀伊国主となった秀吉の弟羽柴秀長に代わり、和歌山城代となった桑山重晴(のちに法印と呼ばれる)が三五寺を現在の地に移し、自らの菩提寺にするとともに寺名を「珊瑚寺」と改めた。「珊瑚寺」の寺号の由来は、桑山重晴寄進の珊瑚念珠に由来する。
ご本尊の観音像は、桑山法印が熊野山中の小さな祠(ほこら)で観音像を見つけ持ち帰り当寺に奉置したものと伝えられている。
また珊瑚寺は昔から安産祈願の寺として有名で、本堂には数多くの犬の張り子が奉納されている。そして境内の稲荷社には、今でも多くの犬の張り子や、素焼きの馬が供えられている。どうして馬が供えられるかというと、馬は草を食べるから、胎毒(クサ)も食べて欲しいとのわが子を思う親の気持ちである。
墓地には桑山法印の古い供養塔も残っている。

※境内に、縁起も由来の説明もない。西国33ヶ所巡りのHPから見れば、紀州徳川家入部以前になる。寺町でも、古い方になるではなかろうか。
※ここにも賽銭箱はない。また「お願い」だけするだけになってしまった。
※本殿は締め切られたままで、内陣を見ることもできない。
それにして、奇麗に整備されている。よほど檀家組織がしっかりしているのであろう。

刺田比古神社 公式HPhttps://okanomiya.com/
 ・刺田比古神社 岡の宮の由緒
刺田比古神社は延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の産土神として岡の宮の名で知られている。
御祭神は神武御東征のさいに御活躍した道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐弖比古命をお祀りしている。佐弖比古命(狭手彦命)は百済救済のさいに武功をあげ、その武功により岡の里の地を授かったという。
古来より岡の地は人が住み、道臣命は岡の里の出身とされる。
『続日本紀』にも片岡の里出身の大伴氏が登場し、昭和7年には境内南西側で古墳時代後期の古墳岡の里古墳が発見されていることか
らも、その由緒をうかがうことが出来る。一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられている。

佐弖比古命(狭手彦命)より世々岡の里を采邑し、佐比古命二十世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した。里人はこの地を開始経営し給うた神として、その神徳を仰ぎ産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬した。大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀が始めて岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬した。里人の崇敬も厚く社殿等頗る壮観を極めたが、南北朝の騒乱など度重なる兵乱に遭い、古文書や宝物を悉く失い、社殿も荒廃するに至った。嘉吉年中に氏子等が再興し、国主(くず)神社と呼び崇敬した。天正年中、豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神として尊び、大伴の後裔岡本左介を社司とした。豊臣秀長は城代桑山修理亮重晴に社殿修造を命じ、岡本左馬助家長を神官とした。文禄三年、神社を本来の鎮座地たる岡の里(現在の御鎮座地)に移した。
その後浅野幸長が本国を領するも、本城鎮護の神として変わらず尊宗した。
元和年中、徳川南龍(頼宣)公が紀州入城すると城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献した。
更に領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた。
二代城主清渓(光貞)公以後は産土神として崇敬し寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し、松生院別当職を解き唯一神社となし、新たに神官邸を社の傍に寄進して奉仕を厳にした。其の後名草郡岡村にて社領を寄付され、神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任された。

殊に八代将軍有徳(吉宗)公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となったことから、吉宗公より特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と敬神され、享保年中名草郡田尻村(現和歌山市田尻)に二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。これより年に壱万度の国家安泰の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々三年に一度上東し将軍に拝謁し、代替、継目等のさいは江戸にて拝謁する例となった。よって氏子の崇敬益々厚く神徳弥栄にて、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月九日の戦災に遭い、社殿、宝物、古記録すべて焼失したが、御神霊のみ安泰であった。その後氏子等の敬神により現在の復興となり、崇信日々に広く神威赫々である。

 ・刺田比古とは
道臣命を祀る神社には伴林神社(藤井寺市)、林神社(富山県砺市林)などがあるが、刺田比古神社は全国でも一社しかみられない。しかも『延喜式』神名帳にその名がありながら、猿田彦命の間違いや刺国彦命の間違いとされているのは奇妙に思われる。では刺田比古とは何なのか。
※諸説があるようです。詳しくは公式HPをご覧ください
寺町界隈では、断トツで「歴史を誇る」神社です。
神話を含み古代史に興味を持つと、熊野の地(和歌山)が「不可侵の地」であったことが分かります。
 ・神功皇后東征伝では、大和入場を拒まれた神功皇后は「熊野から大和侵攻」を果たしている
 ・出雲侵攻の先駆けとなった丹生津姫(出雲から天照へ寝返った最初の部族)
 ・天智天皇から逃れた皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)は、熊野から船出して坂東(現・岐阜県)に逃れ、そこで挙兵(壬申の乱)
 ・南北朝時代、熊野には「南朝にまつわる出来事」が多い

ここには「岡の宮」があり、古墳があります。
ここに建てられた「由来」を読みながら感じたことがあります。それは、
 ・地名として「和歌」が有名ですが
 ・『岡』の地名の方が歴史が古いのでは
と思ったことです。

先に述べたように、歴史の転換期に「政治亡命の受入れ」や、捲土重来の逃避経路になったこの地。
時の政権に、散々逆らったはずなのに、朝廷軍の侵攻を受けたことがありません。
 それは「何故だろう?」
 疑問と興味が尽きません。

機会があれば、詳しい先生のお話を受講したいものです。

松生院(西国33ヶ所巡りのHPから)
 ・御本尊 不動明王。脇仏に毘沙門天等。
 ・開創 香川県屋島にて智證大師開基。和歌山に移り尭也上人を中興の祖とする。

第13番 向陽山松生院
(単立真言宗)
聖観世音菩薩
「創建1100年以上の歴史を持つ古刹」

創建は承和9年(842)。
空海の母方の甥、円珍(智證大師)の開基である。所は讃岐国(香川県)屋島壇の浦州崎の地。貞観7年(865)には清和天皇勅願寺、つまり官立寺院となった。だが、文治元年(1185)、源平屋島の合戦のため本堂を残して寺は焼失した。

その後、乾元元年(1302)に紀州和歌浦芦辺の地(現和歌浦羅漢寺付近)に移建され芦辺寺となってから、和歌山での歴史が始まった。天正年間の紀州兵乱を避けて、寺は山東荘黒岩村(山東黒岩)に移転。慶長13年(1608)、浅野氏国守時代になってようやく現在地に落ち着いた。その当時の寺域は広い国有地だったといわれる。紀州藩時代に入って初代藩主頼宣の帰依篤く、毘沙門天像や山門等の造築の寄進を受けると共に、藩の護邦殿とされた。

明治37年(1904)には本堂が県内初の国宝指定を受ける。この本堂は昭和11年の大修理時の調査で、慶長年間の浅野氏により空海開基楊柳山宝光寺(既に廃寺)から移築されたことが確認された。さらに野棟木に慶長18年(1613)の墨書があり、この年に現在地に移築されたものと推定された。

しかし昭和20年の空襲で、寺は本堂の礎石だけを残して全焼する。円珍作の不動明王も同じ運命となってしまった。
平成8年、現住職の努力がみのり、焼け残った礎石の上に往時国宝であったのと同じに本堂は再建された。ただ同時再建の山門は頼宣寄進の規模よりひと回り小さくなった。創建以来1100年以上の歴史の重みを感じさせる寺である
※境内に、縁起も由来の説明もない。
※ここにも賽銭箱はない。また「お願い」だけするだけになってしまった。
※本殿は締め切られたままで、内陣を見ることもできない。
それにして、奇麗に整備されている。よほど檀家組織がしっかりしているのであろう。

これで「寺町ウオーク(東半分)」は終了です。
松生院の向かいは「岡公園」です。和歌山城築城時の「石切り場」と認識してきました。それは間違いないのですが、お城より『岡』の地名は歴史も古く由緒あるのだと、本日初めて知りました。

この後お城近くで昼食をとり、駅まで歩いて「本屋を覗き」家路につきました。
歩いた距離は「4km」日陰もない炎天下で、時に意識を失くしそうでした。さて、寺町ウオーク「西半分」は何時になるのだろう?真夏は避けたい気持ちが強いのですが、案外近いかも…


 200613(土) 自粛解除後初の温泉

自粛解除後も、孫のお世話で事実上「足止め状態」が続いています。
今日は、息子が休みなの解放してもらい、解除後初の「黒潮温泉」へ行ってきました。
 ・検温して入場
 ・受付方法は一変し、鍵も自主管理(要は触れたくない)。
 ・下足箱も脱衣籠も半数以下に間引きで、入場制限中。
 ・お風呂の洗い場も間引きで「客もまばら」でした。
 ・風呂上がりのビールが楽しみでしたが「レストランは閉鎖中」でした。

まだ、ぎこちない「自粛解除」でした。

黒潮温泉のレストランが閉鎖中なので、夕食はどこへ…で、目に入った店に入りました。桜喫茶と言うそうで、関西一円に展開しているそうです。

なかなかなオシャレお店です。注文したセットメニューは1280円(税別)とお安くないですが、揚げたてのカツサンド(紫蘇味)がとっても美味。デザートもたっぷりついて、味は抜群でした!

しっかりお腹は膨れたのに、土産のケーキを買う時に、つい「自分たちの分」まで買ってしまいました。食べすぎだあ~

リーズブルな値段(と言ってもやや高いかな)で、ランチメニューもありました。

今は、息子夫婦の「おさんどん」を受け持っており自由に外出できませんが、来月には解放されるので「買い物がてら」寄ってみようと思います。


 200601(月) 海鮮市場「浜のうたせ」

武漢ウイルスによって続いていた「自粛」
それも本日をもって、全面的に解禁となりました。私たちも、自粛後初の非日常の「外出」です。
向かったのは、最近オープンしたばかりの「箕島漁協直営店 海鮮市場 浜のうたせhttps://hamano-utase.com/」です。

海鮮市場「浜のうたせ」につきました。自粛明けで、誰もが「外へ出たかった」のでしょう。駐車場もいっぱいです。人もたくさんいます。とてもじゃないが「3密を避ける」ことは無理です。
昼前に到着したので、まずはレストランです。でも、メニューには「売切れ」の貼紙だらけ。
食べたかった海鮮丼も売切れです。これは、写真を撮らせてもたっらのですが、3980円だそうです。

あるものを注文するしかありません。
私は「ほねく揚げ(さつま揚げに近い)とビールで、300+400円です。
家内は足赤エビフライカレー1500円です。

お分かりのように、安くありません。更には「待ち時間の長さ」です。
私たちの注文番号は94,95番です。でも、出来上がっているのは「50番台」でした。

厨房の中を覗いてみたら、誠に非効率です。結構人数がいるのですが、半分は「手持無沙汰」です。
グランドオープンが5月30日で、まだ段取りが上手くないのでしょう。

味も、結構美味しかったのですが、待ち時間を考えると、数年たって落ち着いてからの方がいいかもです。
まだ、オープン直後で「おもてなし」まで気が回らないのでしょう。
食後、海鮮市場へ回りました。夕食の食材を買い求めるつもりでしたが、レストランの混み方から想像できた通りでした。
きっと、食をそそられる「海鮮」が並んでいたのでしょうが、多くは売れた後でした。

結局、地場産のウナギを購入しました。今夜は「うな丼」です。
やっぱり、数年後に出直します。


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