ちょっとそこまで

 200527(水) ウオーキングと和歌山城

畑が早く済んだので、ウオーキングすることにしました。
目的地は「和歌山城」です。我が家から、片道4.5kmで程よい距離です。


 今日のコースで、
 約11km、16000歩です。
 今月累計で約24万歩
 良いペースです!
今まで、我家はウオーキングに向いていないと思っていたのですが、往復10km程度で、
 ・風土記の丘
 ・紀三井寺
 ・和歌山城
 ・花山温泉
等があり、健康維持には「良い距離のウオーキングコース」が、結構あります。

我家から、和歌山城まで一気に歩きました。
途中、日陰はほとんどなく猛烈に暑い。水分は補給しながらですが、お城到着時にはバテました。

それでは、ウオーキングのコースです。
自宅⇒2km地点から天守が見えだした⇒寺町周辺を通過⇒天守到着(本丸前広場で弁当を使う)⇒大手門⇒和歌山駅(本屋に立寄る)⇒貴志川線で帰宅

お城まで1kmの地点に「寺町」があります。グーグルマップで見ても「墓の多さ」が分かります。
和歌山城築城と同時に集められたもので、丘陵地に集積しています。
1番の高台に紀州徳川家御廟があり、まるで城構えです。
実際にも「防衛線」を構築していたのでしょう。

寺町の存在は知っていましたが、まだ「じっくり見学」したことがありません。
今日は、寺町の「縁」歩いて、城えの近道してしまいましたが、次回は「寺巡り」をしてみたいですね。出来れば、縁起や由来も調べてみたい。

縁に面した神社仏閣を少し紹介しておきます。

和歌山城「不明門」へ到着。ここから入城です。

天正13年(1585)、紀州を平定した羽柴秀吉は、弟の秀長に命じて紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせた。これが和歌山城の始まりである。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石で紀伊に入国し、和歌山城主となる。

元和5年(1619)、徳川家康の10男頼宣が55万5千石を拝領し、紀州藩が成立する。頼宣は二の丸を西に広げ、砂の丸・南の丸を新たに造成した。
紀州徳川家は、尾張・水戸とともに「御三家」と呼ばれ、8代将軍吉宗、14代将軍家茂を輩出した。

1846(弘化3) 天守閣が落雷で焼失
1850(嘉永3) 天守閣が再建される
現在の姿になったのは、紀州徳川家になってから。
落雷で天守を焼失したがその後再建され、戦前まで「往時の姿」をとどめていた。しかし、大東亜戦争の和歌山空襲で全て焼失した。

戦後、連立式天守は鉄筋コンクリート造で再建(二の門は木造で再建)された。

再建後、60年を過ぎ老朽化により「建替えが必要」になっている。木造での再建を望む声が強いが、全く予算の目途が立っていない。
新裏坂102段の石段を登ると本丸前の広場です。

不明門と本丸前広場の標高差は40m、城郭は二の丸とも一体化されているので「平山城」の分類になると思う。

和歌山城らしいと思ったのは、使われている石が全て「緑色片岩」です。
 緑色片岩
火成岩などが、比較的に低温・低圧のもとで広域変成作用を受けて生成されたもので、変成岩としては変成度合いが小さいものである。豊富に含む緑色の成分と、発達した面状構造(片理)がみせる縞模様によって外観が美しいとされ、日本では庭石などに愛好されている。

緑色片岩は、和歌山付近で大量に採取できる石で「鮮やかな緑色」をしている。
公式ホームページや城内の案内板にこのことに触れたものがないが、創建当時「緑の城」であったであろう(今は苔むしており緑色片岩を知らない人には想像は難しいかもしれない)。

広場の日陰で「弁当」です。家から持ってきたパンで昼食。
それから、連立式天守の見学です。
初めてではありませんが、今日は「新鮮な気持ち」でした。

マスクをつけ、アルコール消毒を済ませて、チケットを買おうとすると「待った」が掛かった。ここで「検温」をして、やっと入場許可です。

二の門櫓から「本丸」に入る。
外見は忠実に再現されとぃる、内部は鉄筋コンクリートです。ちょっと悲しい。
戦前まで現存したわけで、資料も完全に残っており「木造による再建」を望む声はよく理解できる。


では「本丸のご紹介です!

本丸は、二つの隅櫓と小天守、大天守を回廊で結んで構築されています。

天守から見る風景を遮るものはなしです。さぞや「聳え立っていた」のでしょうね!



まだまだ「見どころ」はたくさんあるのですが、今日はこれで終わり。

大手門から出て、ケヤキ通り(和歌山のメインストーリー)を歩いて、和歌山駅へ向かいます。

今日歩いたところは、緊急事態宣言中は「閉鎖」していたところばかりです。

今は「居酒屋」も開店していました。「ちょっと一杯」と思ったのですが、目的のために我慢です。
和歌山駅到着です。
2ヶ月ぶりに「本屋」へ行きました。この2ヶ月間「外出自粛」で、ホンマに久しぶりです。

今月だけで、Amazonで8冊の本を注文していましたが、やはり「手に取って確認」できると選びやすいです。ここでも1冊購入し、今月の購入は8冊になりました。

この後は「食べたかった和歌山ラーメン」です。
まだ昼のパンがしっかりお腹に残っていましたが、ガッツリといただきました。

和歌山駅からは、これまた2ヶ月ぶりの「貴志川線」で帰宅しました。

今月のウオーキングはこれで終わりです。
真夏を迎えますが、これからもウオーキングを楽しみます。


 200520(水) ウオーキングと紀三井寺


武漢ウイルスの「緊急事態宣言」は解除されたものの、まだまだ自粛が続きます。
多くのお店は休むかテイクアウトのみが目立ちます。
そんな分けで、運動不足解消のため、ウオーキングです。

午前中の3時間、畑でハードな仕事をこなし、昼食を済ませて13時に出発です。
 ・目的はウオーキング
 ・目標は紀三井寺
スマホに、紀三井寺を入れをルート案内開始です。

往路は、和歌山群発地震の震源地「名草山」の山すそを回るルートです。今まで歩いたこともないルートで、物珍しも手伝って、ルートを外れて歩いたりもしました。
それが、天台宗の了法寺です。

近くにある和田川は氾濫を繰り返してきた川です。
このお寺にも「洪水記念碑」がありました。
山裾に、神社仏閣が連なるのは「ここまでくれば安全」と言う目安だったのでしょう。

Googleナビに「徒歩」の設定をすると、とんでもない道を案内します。
今日も、畦道を案内されて「ウソやろ」と何度も行ったり来たり、随分無駄に歩きました。

了法寺を過ぎると、光圀稲荷神社です。個々は依然来たことがあるのでスルー。

山裾の道も、標高24.5mまで上がって、次は下り坂。
下ったところに三葛嶺(三昧道)がありました。

ここは昔から「霊地」と言われた場所だそうです。なんか「謂れ」がありそうで、冷気を感じる場所でした。

ここを過ぎると、県立和歌山医大のキャンバスがあり、JR紀三井寺駅を通過して、紀三井寺門前町へ到着です。
片道5km+α(寄り道迷い道)を元気よく歩きました。
紀三井寺は、今からおよそ1230年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。
http://www.kimiidera.com/
私は勝手に「近江の三井寺に対して、紀州の三井寺」なのかと思っていたのですが、
この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれ、今も境内には、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水がこんこんと湧き出して、年中絶えることがありません。(紀三井寺の三井水は昭和60年3月、環境庁より日本名水百選に選ばれました)



正面に見えるのは楼門
紀三井寺に到着です。
ちなみに、今日の目的地・紀三井寺も、名草山山裾に展開しています。そのため、急峻な「石段」でも有名です。

楼門で拝観料200円を払い、六角堂までの231段に挑戦です。

231段の途中にある踊り場は2ヶ所のみ


女厄坂、男厄坂と上り、最後が還暦厄坂です。これを登れば境内到着です。
ちなみに、楼門までの階段と、境内から多宝塔までの階段を加えれば300段を超えるそうです。







境内到着


 仏殿と大千手十一面観世音菩薩

紀三井寺訪問は2度目です。
最初は、まだ家内と同居する前でしたから、もう10年以上前になります。

 多宝塔
境内から、更に鉄砲階段で登る多宝塔。ここにも上りました。

仏殿

和歌浦が一望

六角堂


本堂
帰路は、流石にあのまっしぐらな階段を下る勇気はありません。大きな回り道になりましたが、メンテ用の自動車をゆっくり下りました。

帰路は国体道路を歩き、途中から和田川に沿って帰りました。

よく歩きました。疲れました。よく眠れそうです!


 200502(土) ウオーキングと風土記の丘


テイクアウトの店がいくつもある、次は弁当を買おう!

歩き出して2km、正面に見えてきた山が「風土記の丘」
武漢ウイルスで「外出自粛」なのに、家内の膝の悪化で「車の移動」もできない。
その結果、生石へ行く機会もめっきり減りました。

いまは、自宅と畑の往復ばかり、これでは運動不足になるばかりです。
そこで、畑のケアを済ませた後「風土記の丘」まで歩いていこうと決めた。

普段通り5kgの負荷(バックパック)を背負い、畑を出発した。
到着予定は11:40分なので最寄りのスーパーで「パンとドリンクを購入」したが、これが大間違いでした。

沿道には、お店を閉めテイクアウトの弁当を用意する店が多い。
  日本は凄い!
武漢ウイルスの非常事態に耐えて、みんな頑張っている。感動で涙が出た!
それに引き換え、暇だからとノー天気に歩行をしている自分が申し訳ない。
次は、弁当を買いながら歩こう。いっぱい買って仕舞いそうだ!

歩き出して2km、正面に見えてきた山が「風土記の丘」です。山頂が周回路の中間地点で、そこには「将軍塚古墳」がある(はず)。
山裾を半周迂回したところに資料館がある。もし直線で行けるなら、距離は半減しそうです。

予定より早く風土記の丘に到着。殆どアップダウンはなく、生石高原の散策と比べれば何でもない距離でした。
風土記の丘資料館や駐車場が閉鎖していることは知ってたが、到着して「歩く人が多い」ことに驚いた。ここなら「3密に縁がない」と思う人が多いのだろう。

修復古墳

展望台から

前山B古墳群入口(左右も古墳です)

前山A56号古墳

前山A46号古墳
片道4kmだが、畑作業を1時間半済ませており、既に運動量はかなり多い。

お昼前なので、まずは「腹ごしらえ」です。それから風土記の丘周回路を歩きます。

周回路は1周3kmで標高差150mです。
順路は右回りですが、私の癖で「左回り」に歩き出した。スタートから1kmで一旦ピークに達し、次は100m下ってから再度登りだす。中間地点が最大標高で、平坦な道が500m続きます。最後の1kmは強烈な下りになります。
風土記の丘周回路の平均勾配は1/10で、決して弛くはない。

古墳群は幾つもあり、周回路から枝分かれして、100mほど脇路へ入ると古墳群に到着する(らしい)。
きっと、全て古墳群を制覇すると、周回路は倍の距離になりそうです。

風土記の丘は何度か来ているが、古墳群を詳細に見たことが無い。今日は前山A・B群の一部に入ってみた。
前山A地区古墳群だけでも50を超えるようで、古墳の多さに呆れるばかりです。

次回は、最大と言われる将軍塚古墳群に行ってみたい。

世界文化遺産登録が決まっている、大阪の「近つ飛鳥」も古墳群がある。
全国的には無名だが、風土記の丘の方がずっと数が多い(資料館が閉鎖中で正確な数が分からない)と思う。

学術調査も明治中期から始まっており、分類も奇麗になされている。いまは「古墳の復元」が順次進行中です。

※「指導員養成コース」があり、それに所属すれば、詳しく勉強もできそうです。ただ、そこまで熱心になれそうもない。
※古墳は解放されており、自由に入れそうです。ただ、私は怖がりで「1人で入る勇気」は持ち合わせていない。

周回路を歩き終わってから少し休憩し、帰路につきました。
復路は、往路と違うコースを選んだのですが、次からは往路にします。
「畑~風土記の丘~周回路~自宅」で11kmの歩行でした。今日は25度を超える夏日で、最後の1kmはバテました。
歩行中摂取した水分は1.5㍑、もう「塩飴」が必要です。

※歩行記録は、自宅到着時のものです。
※ちなみに、グーグルと歩数計では距離が全く合わない、理由は簡単で、畑作業(動き回る距離)をグーグルは感知しないからです。
ウオーキングから帰り、少し休憩しただけで再度畑です。明日は畑へお客様があるので、その準備です。
更には、食事の買い出しにも行ったので、今日の最終歩行距離は18kmでした。

急に暑くなった炎天下での18km、流石に疲れ過ぎて夜はあまり眠れなかった。
とはいえ「癖になりそうな」コースです。これからは、週一くらいで歩いてみたいものです。


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