ちょっとそこまで | ||||||||||||
110907〜110908/長府 | ||||||||||||
(残念ながら、家内を同伴できませんでした。今は爺様の介護に追われています) 今回は会議が二日にわたるということで、会議と会議の間を中抜けして「長府」にやってきました。 初日の会議を終えて、長府へ移動。ホテルへチェックインして身軽になってから、タクシーで功山寺へ向かいました。 功山寺は、歴史に登場する寺です。 まず、戦国時代の西国の雄「大内氏」の終焉の地です。さらに時が下り、幕末、攘夷派の公家7名が京を追われこの寺に身を隠しています。徳川幕府による「第1次長州征伐」で追い詰められた長州藩ですが、高杉晋作と言う若き指導者により、ここ「功山寺」で回天の挙兵をします。 明治維新を起承転結で分けるのなら『転』を作ったのが高杉晋作で、その場が功山寺です。 功山寺の高杉晋作像 長府は、司馬遼太郎氏の『世に棲む日々』で、しっかりとイメージが出来ていた街です。ただ、私のイメージは過大であったようだ。功山寺の境内は、私のイメージよりはるかに小さかった。結果が大きかっただけに、私が勝手にイメージを膨らませたようだ。 このイメージギャップは、功山寺に限らない。長府の街を二日に分けて歩いたのですが、まことにこじんまりとした「城下町」でした。 功山寺から、長府毛利邸へ行きました。断念ながら、ここは17時で閉館と言うことで、邸内やお庭を拝観できませんでした。 陽があるうちは歩こうと、古江小路を歩いて乃木神社へ向かったのですが、随分迷いました。 私は、事前に地図を頭に入れて歩くのですが、イラストマップは距離が不正確なことと、方位が違っていたからです。 建築屋の癖で「上を北」として見るのですが、イラストマップは「上が西」になっていたのに気付かずに歩いたためです。 乃木神社へ着いたときは、時間が押していました。 日露戦争の軍神「乃木大将」を祭る神社で、旧乃木邸をベースにしています。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」では、乃木大将を暗に「愚将」と批判しています。 その理由は「203高地攻略」で、膨大な死者を出したことにあります。ただ、最近の研究では、乃木大将を評価する動きがあります。 乃木大将は、明治天皇に夫婦で殉死したことで、多くの人に尊敬されたと思います。 ここで帰路に付きました。 途中、忌宮神社へ参拝しました。ここは、神話の世界「神宮皇后」から社歴が始まるという古い神社です。 この後、ふらりと入ったお店で、沈没しました。旨い魚と、豊富な地酒に気持ちよく酔わせていただきました。 ホテルへ帰るなり酔いつぶれて… 翌朝は、前日の議事録整備やHPの更新を済ます。 それから、長府散策の続きです。 ホテルからタクシーで、覚苑寺へ。 ここは毛利藩歴代の藩主の墓があります。山に沿ってあり、全て見て回るのはとても時間が掛かりそうでパスしました。 お堂は、廃寺となっていたものを移築したそうですが、黄檗宗の特徴をよく表しており、祀壇もまことに簡潔で美しかった。 またこの一帯は、日本最古の貨幣「和同開珎」の鋳造場所としても知られています。 次は、吉岡家長屋(現在はギャリ―)を見学。ここで、やっと分り易い地図を入手した。 横枕小路を歩きました。 長府城下町の特徴は、こうした小路だけではなく、各所で「土塀」が見事に残されていることです。 笑山寺へ。藩主の母堂を祀ったのが始まりとされていますが、立派な山門は締まっており、拝観はできませんでした。 笑山寺そばの「桂のさと」で休憩。ご法度のスイーティーをたっぷりと賞味。まあ「しっかり歩いているの」と自分言い訳です。 さて、道草もこれで終わりです。午後からの会議に参加するため戻ら蹴ればなりません。 かつては高級武士が住んでいたそうで、今は高級住宅街となっている、壇具川沿いです。各所でホタルが楽しめるという渓流です。 これが、国道2号線まで続いています。 川にはたくさんのカモ(アヒルとの交雑種)がいました。きっと、住民から手厚い保護を受けているのだろう。 国道からはバスでホテルへ戻る。 荷物を受取れば「仕事モード」へチェンジです。 これで、急ぎ足でしたが、下関・山口・防府・長府と瀬戸内側は回りました。 山口への出張機会があるうちに、是非「萩」へ足を延ばしたいものです。 |
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