home 『神事と城巡り』 top 200731(金)福山城 |
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新型コロナ(武漢ウイルス)騒ぎで日本中が「自粛」 それも第1波が収まり、自粛解除になったのですが、あっと今に数倍の規模で第2波がやってきた。 とはいえ、私は4ヶ月ぶりの仕事(出張)です。 もう、あまり機会もないでしょうから「+1の旅」をたくらんだのですが、行きたかった安芸吉田城址(毛利勃興の地)は、新型コロナのため「ガイド中止」なっていました。 そこで、手近な「福山城」をゆっくりと散策することにしました。 会議が2時間も延長になり、福山到着はすっかり遅くなりました。この日は福山城のライトアップを見ながらホテルへ直行。見学は翌朝からです。 |
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実は、全く予備調査をせずに来てしまいました。 このお城の由来を知ったのも、到着してからでした。 8時半に福山城公園に到着。公園には、福山市立美術館と広島県立歴史博物館が並ぶ。ウフフ…大阪の府市併せ(不幸せ)を思いだす。 まずは、お城の見学です。しかし、天守の見学が出来るのは9時から。 石段を上り、本丸へ向かう。時間はあるのでノンビリです。 ここで知ったののですが、伏見城から移築された建物が多いことです。 伏見城は豊臣秀吉を象徴する城で、徳川家康が徹底的に破却した城です。まさか、ここで「活きている」とは知りませんでした。 蛇足ですが、織田信長の居城で、家康が人質生活を送った清州城は、石垣に至るまで棄却されて「名古屋城」に化けています。 家康って「恨みを持つ人」だったんですねえ~ 福山を収めた初代は福島正則です。徳川の天下が安定すると、豊臣恩顧の大名は次々に潰されていきます。福島正則も、東北に入封後取り潰されています。 そののち入府したのが
水野家は、家康の母方の家系です。 空襲で、焼け落ちた城郭ですが、再建に際しては、福山に進出した日本鋼管の寄付が大きかったそうです。 この辺りの話は、時間つぶしの最中にめっこ付けた人(予想通り学芸員)から、伺った話です。 ただ、外観に関する資料は残ったそうですが、ディーテルに関する資料は焼けてしまい、再建は「外観だけ」と言う印象がありました。 偶然ですが、8月1日から「耐震補強で2年間お休館」だそうで、見学が出来る最後の日でした。 耐震補強より「木造による再現」論が出たそうですが、 ・予算の目途がない ・細部の資料がない こんな理由で「耐震補強(再現された櫓を含む)」に落ち着いたそうです。 |
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天守 |
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お湯殿(新幹線駅から見える) 左:筋金御門・右:伏見櫓 |
月見櫓 鐘櫓 |
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二の丸 二の丸から見る鏡櫓(向こうに見えるは月見櫓 |
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やっと、天守に入れました。 内部は「ただの鉄筋コンクリート造」で、お城らしい雰囲気はな~んもありません。 展示物も「撮影禁止」で、長いこと模様替えもしていない様子でした。 私は知識がなくて分かりせんが、立派な甲冑が展示してありました。ただ「〇×氏所蔵」とあるだけで、由緒の説明はなし。折角の逸品(のはず)なのに、勿体ないですね! 耐震補強に併せて、ディスプレーも見直されますように |
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天守回廊から見た、立派なお庭とお屋敷。てっきり「藩主の庭」かと思ったのですが、ここは五千石蔵があった場所。明治以降に払い下げされ、昭和の初めに、個人の別荘(鰹節で財を成したそうです)として建てられた。 空襲でも焼け残り、後に福山市に寄贈された。 現在は、福山市福寿会館として、市史編纂室及び貸会議室や貸茶室として使われている。主に本館、洋館の2つの施設で構成され、両館含めていくつかの建物が国の登録有形文化財に登録されている。 |
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天守最上階に一部屋再現されていた。何の説明もなかったが、恐らく「自刃の間」であろう。
城を跡にして、在りし日の写真を発見。確かい外観はよく再現されているようです。 三藏稲荷神社を参拝して、それから福寿会館のお庭を拝見。 |
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この後、県立歴史博物館へ。なかなか見ごたえのあるディスプレーでしたが、まったくの撮影禁止で「写真はなし」です。 SNS全盛時代に逆行する規制ですね!これでは、良い評判も拡散のしようがない。 この頃になると「汗が絞れる」ほど衣類は濡れてしまった。施設に入れば冷房が利いていて、これでは風邪ひきになりそうです。電話をして、Tシャツを1枚購入してもらい、長男の嫁のご両親と久しぶりの邂逅です。 福寿会館の洋館で会食です。 これは福山の名物料理だそうで、贅沢禁止令の折「ごはんの中に美味しい具を隠して」ちゃずけ風に仕立てたものです。良いお出汁で、とても美味しゅう御座いました。 この後、福寿会館内を見学し、場所を変えて「ささやかな酒盛り」となりました。 これで予定終了、帰路につきました。帰宅は19時でした! |