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 200923(水)
http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/

先日、WOWOWで「決算忠臣蔵」を見た。
お家断絶で騒めく浅野家中、籠城派もいれば、恭順してお家再興を願う声、更には「仇討ち」まで!

これは塩田事業で余裕のあった「浅野家」だけに成り立つ話であろう。
それでも「経済の分らぬ武士」たちは、浪費に浪費を重ねていき、成り行きで「討ち入りせざるを得ない立場」に追い込まれた時には、うどん代にも事欠く有様であった。
なんと!討ち入りシーンのない、前代未聞の「忠臣蔵」でした。

これを見て「赤穂城」へ行きたくなった!
ずいぶん昔、前を通り過ぎたことはあったが、中に入ったことははない。そんな折、降って湧いたように「赤穂へ出張」が決まった。

何と!現場は、道路を挟み対面は赤穂城址でした。
三の丸から入り、二の丸、本丸を経て、大手門から抜けて播州赤穂駅まで歩きました。
日帰りでしたから「+0の旅」になりましたが、城址をたっぷり散策(赤線で散策ルートを表示)してきました。

※この日の歩数は、約13000歩でした。


打合せ終了後、水路に架かる橋(写真右)を渡り「三の丸(現在スポーツ公園)」に入る。
残る石垣を横目にして、スポーツ公園を横断して、水手門へ向かいます。
途中、修復中の石垣が眼に入る。
昔の通りすぎた赤穂城と、いまの赤穂城は随分違うだろう。
今の赤穂城は、石垣(現在修復中も多い)と一部の塀しかなく、遺構はない。とはいえ、二の丸庭園は見事に復元されており、いまも復元が進行中です。
長生きできたら「10年後の赤穂城」を見てみたいものです。

二の丸堀の沿って歩き、水手口が見えてきました。
■赤穂の歴史
赤穂の納めた歴代大名は多い。赤穂浪士で有名になって、赤穂と言えば「浅野家」と思うが、治めたのは1645~1706年です。
赤穂城の原型を作ったのは浅野家で、経済発展(塩田事業)もこの時代に行われている。

説明では「海岸平城」とありますが、変な用語です。
往時は、三の丸は海に接していたと思う(現在は埋め立てられ工業地帯になっている)。
正確に言うなら「海城」だろう。当たり前だが、海城なら「平城」しかありえない。三の丸と二の丸の境部分に「水手門」がある。恐らく、これが「海の玄関」であったのだろう。
水手門跡から二の丸に入る。
城門跡の正面に米蔵があり、船で米を運びこんだのであろう。
米蔵は「桝形」を構築しており、防御の要にもなっていたのだろう。

桝形を通り過ぎると、石垣と堀が見える。
これは本丸です。石垣の形状から見れば、隅櫓もあった筈です。
本丸の堀も、二の丸の堀も掘り幅は広くない。とてもじゃないが「矢玉が届かぬ距離」とは言えない。

浅野家お取り潰しで「籠城して一戦交える」論もあったそうですが、この掘り幅や石垣で籠城戦はあり得ないだろう。美しい城であったと思うが、強固な城であったとは思えない。

米蔵前の桝形から直進したら、二の丸の「花見広場」が広がっていた。池があり、桜も奇麗だろう。

突き当りに奇麗な塀が続き、西仕切り門を通らければ向こうへ行けない。私はここで引き返し、本丸へ入るルートへ向かった。
後で分かったことだが、塀の向こうは「二の丸庭園」で、最近復元がなったようだ。
厩口門に到着、ここから本丸へ入る。
本丸御殿は「床」が再現されており、部屋割りは想像できる。山城と違い、実際にここで政務が行われ、住居にもなっていらであろう。

ひときわ高い石積は天守台。
あまり大きな天守ではなかったと思う。
天守台には登れるが諦めた。1段の高さが40㎝ほどあり、足の短い私には無理でした。

本丸内に「庭園」がある。
恐らく、住居に面したお庭であったであろう。

本丸門から出て、二の丸に戻る。
流石に本丸門は「桝形」がありる。
 ・写真右は本丸側の門
 ・写真下は二の丸側の門
本丸門を出て、二の丸庭園を見学。まだ、最近復興されたばかりの庭園です。

まことに私好みで「趣味の良い庭園」です。本丸を借景として、詰め込まず「すっきりと広さ」を見せる良い庭園です。

二の丸庭園を後にして、更に歩く。
山鹿素行の像がありました。浅野家は、山鹿素行と縁が深い。流人の山鹿素行を厚遇し、城の改造にもかかわっている。また、藩内で「軍学の講義」も行っている。

忠臣蔵の討ち入りで「山鹿流陣太鼓」のセリフが出るのも、この縁があるからです。
大石神社へ参詣、参道両側に47士の像が並ぶ。
この風景に記憶があり、私が以前「通った」のはここであろう。

お参りはしたのですが、ちょっと苦笑い。結果として「かたき討ち」は果たしましたが、大石に「その気があったのか?」甚だ疑問に思っています。

まさか神社だ出来、こうして祀られるとは、ご本人も驚きではなかろうか?
武家屋敷公園(道路右側の土塀)前を通って歴史博物館(正面に見える土蔵風の建物)へ。
しかし残念ながら、既に閉館となっていました。
大石邸長屋門前を通って「大手門」へ向かう。
ちなみに、大石邸の大半は現在「大石神社」となっている。

赤穂城大手門も桝形になっており、複雑な周り込みです。

これで赤穂城は終わりです。
大手門を出たとことろに「茶屋」があり、ここで名物「塩まんじゅう」を食べて少し休憩。播州赤穂駅まで直線で15分、最後の頑張りで歩き通しました。よい「+0の旅」でした!







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