home 『丸亀城』 top 190209(土) 曇り時折小雨 |
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大手門から見る丸亀城(正面の門は「大手二の門」) |
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・高知城 ・松山城 ・宇和島城 ・丸亀城 高知城は複数回行ったことがあるのですが、他の3城は未散策。3城併せて回りたいと思っていたのですが、いくら計画を立てても「無理」と納得し、今回の「丸亀城」になりました。 前日は出張で山口。 新山口駅前で宿泊し、7:47発の「さくら」で出発。岡山で「しおかぜ」に乗り換え、丸亀到着が10:04でした。 まずは観光協会で地図を入手。城までは、アーケード街を抜けて、徒歩10分。 時間が早いこともあったのですが、シャッター街です。 ネットでの事前調査も、あまり情報がありませんでした。 その代り「城好き・歴史好きは分かる」ようで、歩いている最中に、お二人の「郷土史愛好家」に話しかけられました。お陰で、疑問に感じたことが氷解しました。 丸亀城旅行記では、お二人の郷土史愛好家から伺った話を交えて進行します。 アーケード街を抜けると、こつ然と丸亀城が現れます。 丸亀城の天守石垣は、標高65m。天守の石垣としては日本最高だそうです。 もう、まさに平地に突然現れる「山城」です。 讃岐平野には、小山が目立ちます。古代の「噴火による隆起」だそうで、丸亀城は海に近い小山を利用して築城した。 〜石垣を積んだ〜というより、小山に『石垣の鎧を着せた』と言った方が正確です。それが〜平地に突然現れる「山城」〜でした。 丸亀城の経歴は、 ・1587年〜生駒氏 (継承者不在で断絶) ・1643年〜山崎氏 (継承者不在で断絶) ・1658年〜京極氏 築城開始は、1597年、生駒氏によって行われる。石垣の石の多くは「大阪城築城の予材」を運んだそうです。 ・1615年一旦廃城(石垣は巧妙に隠し温存したという) ・1643年山崎氏、幕府の命により再築 |
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丸亀城は「天守の他12の櫓と白い塀」を持つ見事な城でした。 明治の「廃城令」で、天守を残し廃棄されたそうです。まことに「勿体ない」出来事でした。 立派な石垣とアンバランスな「小さな天守」、この謎も聞くことが出来ました。 現存天守が出来たの1660年、京極氏によって作られた。 「石高6万67石に見合ったもの」とされますが、幕府は京極氏を恐れて、大きな天守を許さなかったのだろう。 本丸は四隅の天守と隅櫓を繋ぐ「連立式天守」です。 京極氏入城により、大手門を海側に代え、併せて「天守も海に向けた」そうです。現存天守は京極氏の築城になります。 それでは、写真で丸亀城をご紹介。 |
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■大手門 堀を渡ると、大手二の門(冒頭の写真)です。武者溜まりを90度回ると「大手一の門」です。 大手一の門の上部は時を知らせる「時太鼓」になっており、見学も出来るそうです。 (私はスルーしてしまった) |
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丸亀城の魅力は「石垣」です。石垣の積み方だけでも、 ・切り込みハギ ・鏡石(写真右) ・野面積み ・打込みハギ ・高石垣と算木積み これらを探しながら歩くのも楽しみでした。 高く積まれた石垣には、要所要所に「水抜きの樋」が仕込まれていました。 |
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■見返り坂 大手一の門を入ると、正面に天守が見える。 見返り坂を上って「三の丸」に向かいます。 この坂、とてつもなく急こう配です。何せ、平地に突然現れる山城ですから、緩やかな坂では標高65mを登れません。 この坂を何度もダッシュで鍛錬する若者がいました。元気っていいねえ |
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見返り坂を登りきると、90度曲がって「三の丸」への坂道が続く。とにもかくにも、思わず「綺麗」と言葉が出る、美しい石垣です。 この坂の正面には、当然門があったであろう。三の丸に到着するには、両側からの攻撃に耐えなければならない。難攻不落の坂道です。 |
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三の丸から見る本丸の石垣 |
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三の丸からの眺望 ・丸亀港が一望できる ・讃岐平野に点在する小山(噴火口跡)。戦国期には、どの小山にも「砦があった」そうです。 |
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■二の丸 二の丸は「桜」の広場になっていました。気の早い桜が咲いていました。3月下旬になれば、ここから桜で飾られた天守を望むことが出来るでしょう。 二も丸から三の丸を見下ろしたら、一部が交通止めになっていた。この正体を後程知ることになった。 |
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天守の建つ位置は標高65mそれに天守の高さ15mを加えて、高さ80mを誇る丸亀城です。 連立式天守で、往時は隅櫓と繋がっていたはずですが、今は想像するしかない。 まことにこじんまりしたもので「ちょっと大き目の隅櫓」といった感じです。 3層の天守で、急な階段を上ってみましたが、最上階は16畳ほどの広さしかない。 3層ですが通し柱はなく、一層ごとの積み重ねで「太さ自慢の柱」もない。 天守と言っても権力者のモノではないので、用途は「物見やぐら」です。造りも質素で、豪華さなど欠片もない。その代り、眺望は360度です。 狭間はありますが、他城の天守のように数は多くない。恐らく、連立式天守の一角が破られれば、それ以上の抵抗は意味がないと考えたのではないか。 展示物もなく、これが天守本来の姿だったのだろう。 |
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天守見学を終え、帰路に着きます。 見返り坂を下り、城の外周を歩きだした。 丸亀城の石垣は、主に4段に組まれている。最下層は、遠くから見えないので「野面積み」が多い。 やはり、石垣の積み方にも「見栄とコスト」があり、遠くから見える個所には金を掛けている。 |
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これは「搦め手」です。 京極家以前は、ここが大手門であった。 |
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三の丸の石垣が崩落していました。郷土史愛好家氏によれば「石垣が一番美しかった」ところだそうです。 数年前から、一番下段の石垣に「はらみ」現象がみられ、応急処置をしてはいたそうですが「逆に水道を塞いだのでは」という。 ちなみに、この場所は「盛土して石垣を築いた」ところだそうです。 昨年7月の「西日本豪雨」で、最下段の石垣が崩落、プレコンパック(黒い袋)で押えていたところに、10月の3連続台風で中段の石垣が崩落。 その翌日に最上段の出隅の石垣が崩落したそうです。 コンピュータ解析によれば「7万個の石が崩落」したそうで、推定修理費は35億円。国から災害指定が出され、修理費の7割が国庫補助になるそうです。修理は5年以上掛かるようで、私が生きてみることが出来るかどうか?です。 |
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■郷土資料館 郷土資料館はさらりと流して見学。丸亀は「団扇」の一大産地だそうで、製作の実演もありました。 ちなみに、この場所は藩主の住居があったところです。 |
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■玄関先御門 藩主住居の門です。 この門の傍で出会ったのが十河さん。日々、ここで絵を描き「一期一会」を楽しんでいるそうです。 暫くお話をし、素敵な絵葉書を頂戴して、握手してお別れしました。 何時までもお元気で! これで、丸亀城はお別れです。 すっかりお腹がすきました。 讃岐名物の「うどん」を食べに行きます。 |
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郷土史愛好家氏に教えていただいた名店2店を訪れました。系統が違ううどん店で、良い対比になりました。 ・いづつ 海鮮天ぷらうどん(熱い) ・うどん石川 ぶっかけ(つめたい) ちくわ2種トッピング どちらも美味しく頂きました。ただ、どうにも量が多くて、食べきれませんでした。 私が、仕事で頻繁に四国を訪れたのはもう20年も前のことです。 あのころの「讃岐うどん」と言えば、屋根はあるけど隙間風だらけのバラックのようなお店が多かった。 今回の訪問では、何処も「立派なお店」になっており、違う趣になっていました。 バラックで食べた「讃岐うどん」には、野性味があって「楽しかったなあ」という思いがあります。時代が変わったんですね |
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これで、四国に別れを告げ、岡山へ向かいました。 岡山では、鳥友Hさんの個展訪問です。今年は「赤・朱」がテーマだそうで、美味しいコーヒーを御馳走になりながら、話が弾みました。何時かご一緒に「探鳥旅行」をしたいものです。 出張のついでということで、約10sのリュック(仕事の書類・PC・作業着)を担いで、1日歩き回りました。 家に着いた時は、流石に疲れており、もう爆睡でした。 |
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旅行後記 丸亀城には「城下町」がない。 幕末、佐幕側に着いた丸亀藩は、土佐から侵攻を受けます。侃侃諤諤の議論があったそうですが、結局は「恭順開城」を選び、交戦はしていません。 明治維新、西郷隆盛がこの地に上陸。ここに鎮守府「丸亀連隊」設置を決め、城下の武家屋敷が接収された。恭順した丸亀藩に抵抗の術はなかったそうです。城郭は廃棄したが、石垣が守られたのも「西郷の一声」だったとか。 郷土史愛好家のお陰で楽しい「丸亀城散策」になりました。感謝します! |
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