home 『プチクラス会in広島』 top 190521(日) 快晴 |
|||
早朝に下関を立ち、広島へ向かいました。 今日は広島で「プチクラス会」です。愛知から2名、広島在住の1名、そして私は「+1の旅」の流れでです。 集合は「正午に広島駅で」ということで、午前中はフリーです。まず、ホテルに向かい「荷物を預けて」から歩きだした。 今夜の宿泊は繁華街の一角で、ホンに近くに「平和大通り」があります。ホテルから平和大通りを歩きだし、平和記念公園、広島城を見学。帰路は市電で広島駅に向かいました。 そうなんや! 広島は「市電が現役」なんや |
|||
広島の「平和記念公園」訪問は、高校の修学旅行以来で54年ぶりです。 もう「曖昧な記憶」しかありませんでしたが、やはり「来てよかった!」という気持ちになりました(遠くに「原爆ドーム」が見える)。 丹下健三氏設計の平和記念館は「耐震補強工事中」でしたが、新館と併せて「内部の見学」は出来ます。 半世紀以上前、悲惨な展示写真にショックを受けたことが蘇る。 この日も、多くの高校生が来ていたが、どのように感じたのであろうか? |
|||
新館では「原爆投下の瞬間」をディスプレーで再現していました。 既に、継戦能力がないことは分かっていたはずなのに「一瞬にして14万人の命を奪う」必要があったのか! 誰が何と言うと、原爆投下は「人体実験」であったと思う。怒りがこみ上げてくる自分がいました。 |
|||
礼拝しましました。言葉はありません、ただ涙が止まりませんでした |
|||
原爆ドームから、広島城へは1.5q。当時の爆撃精度から言えば「誤差範囲」です。 恐らく、B29の目標は広島城だったであろう。 明治政府の方針で、広島城に陸軍の司令部が置かれたため、広島城は、明治の「廃城令」を免れた城です。 その為「城内だけで1万人が死亡」という悲惨なことになりました。 広島城は初の訪問。修学旅行で近く来たのに、なんでだろう? 広島城は、毛利家が本格的に築いた最初の平城です。 それまでは、城と言っても「柵と櫓」からなる『山の砦』であった。 http://www.rijo-castle.jp/ 関ヶ原後、この地を追われ京極語が入府。京極家も2代で取り潰され、以降は浅野家で幕末を迎えた。 原爆で消滅した広島城ですが、天守と大手門が復元されている。大手門は木造で復元されており、往時を偲ぶことが出来る。 ちなみに、広島城には、白人系の観光客がとても多かった。 |
|||
帰路は、広島市民の足「市電」です。市内の料金は180円、本数も多く、とても便利です。 | |||
正午に、愛知県組の2名と合流。お昼は当然「広島焼」です。席待ちをして、詰爪の席で頂きました。 最上級バーションで、この1枚で1500円(+消費税)でした。 ただ、余りの多さで残してしまいました。 かつては大阪市民としては「お好み焼の方が旨いよね」と言うが、本音でした。 |
|||
昼食を終え、向かった先は「呉」です。 大和ミュージアムの見学予定ですが、なんと!休館日 全く私の調査不足でした。 (大和ミュージアムは10年ぶりの訪問) ならば近場でと、港へ向かい「湾内遊覧船」と考えたのすが「この一帯の施設すべてが一斉休館」と分かり、ガッカリ。 せめて、休館日をずらせて「全滅」は止めて欲しいとおもったものの、どうしようもない。 |
|||
急ぎ広島へ帰り、本日2度目の広島城へ。 |
|||
広島城からホテルへ。 広島在住の同級生が待っていてくれました。 最近は入退院を繰り返しており、健康を心配していたのですが… かなり足ものとが危なく、杖をついての登場でしたが、ほら話の大きさは昔通り。 まだ「大丈夫」と安堵しました。 |
|||
場所を移しての「快気祝い」です。 彼は日本酒が好きで、私と大いに飲みました。 次は「ふるさとの伝統的な祭り」へ行こうということになりましたが、さて?何時になりますやら。 何せ、全員が前期高齢者で「それなりに病気持ち」です。 会ごとに「物故者」が出るのもやむを得ないことです。 しっかり呑んで、しっかり食べて「お開き」となりました。 追記 今夜の泊りは、小さなシャワー+トイレブースのミニマムホテルでした。 |
|||
|