愛媛・城巡り■191017湯築城址

一度は「瀬戸内を制覇」した、河野氏の居城です。小ぶりな城跡で、低い丘を持ち、さて?平山城に分類されるのだろうか。
湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。河野氏は、風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185年)では河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。

承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移しました。その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立しました。庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡し、平安時代末期から戦国期(12世紀末〜16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。

※鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたります。
湯築城は、河野氏250年の「栄枯盛衰の地」でした。


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