愛媛・城巡り■191017松山城



坂の上の雲ミュージアムと萬翆荘の見学を終え、いよいよ「松山城」へ向かいます。
昨夜考えたコースのママです。

松山城天守には、現在「4ルート」ありますが、創建当時は1ルートしかなく「今は使われていない」そうです。これは、途中で出会った、元松山城ガイド氏のお話です。

現在は「ロープウエイで長者ヶ平」まで行き、それから歩きで天守に向かうルートが主流です。私も、このルートを選びました。
ただ、帰りは「歩き」のつもり」で、チケットは片道だけ。私の予定では、
 ・ロープウエイ⇒長者ヶ平⇒本丸⇒天守見学
 ・古町口登城道(現在は崩壊しており通行止め)の一部を見学
 ・本丸⇒長者ヶ平⇒県庁裏登城道⇒二の丸史跡庭園

松山城の魅力を知るには、結果的に、このルートが正解だと、あとで分かることになりました。

さあ、出発です!
リフトも選べたのですが、私はロープウエイにしました。

 松山城 https://www.matsuyamajo.jp/

松山城の創設者は加藤嘉明です。嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、四半世紀の後にようやく完成します。

当時の天守は五重で偉観を誇ります。しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。

なお天守は寛永19年(1642)に三重に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興しました。これが現在の天守です。
上記説明を「何気に読む」と気づかないが、松山城の復興完了は1854年。明治維新の直前です。こんな時期に「復興工事」をしたのは、大変な時代錯誤です。お陰で、後世の私たちが楽しむことが出来る。

加藤嘉明は完成を見ていないが、連立式天守の構えは嘉明の縄張りのママです。
ただ、5層だった天守は「3層天守に規模縮小」されて作り直されている。
元ガイド氏の話によれば「石垣の乱れなど全くない」堅固語な城ですが、天守付近の地盤が弱く、傾きが見られたため「負担軽減」のため縮小されたそうです。







戸無門


筒井門

筒井門に隣接する隠門

筒井門を抜いてもまだ立ち塞がる城門

太鼓門を通ってやっと本丸広場
長者ヶ平でロープウエイを下り、本丸広場めざし歩きます。その道のりを写真で紹介。

石垣と言えば「熊本城」ですが、松山城の石垣もとても美しい。瀬戸内海の御影石を使い、大石だけではなく、間に差し込む小石まで磨かれている。

本丸目指して進んでいくと、

写真上のように正面に天守が見えてくる。
往時は、柵のある部分に門があり正面突破は難しい。ちなみに、突破しても本丸には通じていない。これは戦力を消耗させるトラップです。

正面を諦め右へ折れると「戸無門」がある。文字通り「扉がない」ので、こちらに誘導される。

戸無門を通れば、筒井門で阻まれ、ここでさんざん射掛けられることになる。
筒井門の陰には、武者が攻め懸けるための隠門があり、執拗なトラップが仕掛けられている。加藤嘉明のマニアックな性格が窺がわれる。

本丸の標高は132m。分類は「平山城」になっているが、定義が分からない。
話が前後するが、この後であった元ガイドにおたずねしたら、このような回答でした。

 ・平城:平地に作られた城
 ・平山城:城の一部を丘陵地に設けたもので、三の丸+二の丸+本丸(天守)が城郭として一体化しているもの。一般的には標高30~50m程度のもをいう。
ところが、松山城は標高132mに天守が存在し、ちょっと無理があるが「登り石垣」で広いエリアが一体化しているので、専門家の分類で平山城になっている。 
・山城:本丸が山頂にある

確かに、上り石垣で一体化はされているが、二の丸と本丸間は距離がありすぎる。
登り石垣は1重の備えしかなく、長者ヶ平~本丸間のような「堅固な防御」があるとは思えない。

私の感想ですが、上り石垣は破られることを想定して、本丸+連立式天守だけで防衛できるように作られている。
更には、本丸に侵入された時に備えた防御が天守にある。もう「ここまでやるか!」と言う防御のトラップがある。

松山城は実戦を経験していないが、元ガイド氏の話によれば~研究家によれば「難攻不落」が定説~だそうです。ご案内いただきながら、私も納得しました。


一ノ門

二ノ門

三の門(天守石垣左手にある)

筋鉄門

小天守から見下ろす天守広場

一の門から筋鉄門までの複雑なルートが一望できる

本丸を見下ろす

赤い四角が二の丸庭園。本丸と二の丸は「登り石垣」で一体化
普通は、本丸に天守があるのですが、松山城では「もう1段防御」があります。
本丸の中に「本壇」と呼ばれる構えがあり、4つの門を破ってやっと天守に到達です。
それでは、本壇の構えを写真で紹介して行きます。

右の案内図と比べて欲しいのですが、
写真上正面に見えるのが天守です。突き当たって右へ曲がると「一ノ門」があり、曲がるたびに「二ノ門」「三ノ門」があり、5回曲がってやっと「筋鉄門」です。攻め手のどれだけがここへ到達できるのか。ここを破ってやっと「天守広場」になりますが、ここも4周が囲まれており、全周から射掛けられる。

連立天守を構築する建物群(4周の建物)の入り口は、玄関多門櫓と天守穴倉(写真上)しかない。

もう、マニアックな「殺戮装置」になっています。いままで見てきたお城では、本丸に攻め込まれたら「天守は城主が自害する時間稼ぎ」が精いっぱいとしか思えないものばかりでしたが、ここは違う。
なまじの兵力で攻め入ったら「ここですり潰される」だろう。

お城の内部です(小さな写真でゴメン!)

  穴倉(ここで下足)




左周りで、天守広場を囲む建物群を見学

甲冑の試着。私も着たかったのですが、大人気で、とても順番待ちが出来なかった。


  天守最上階

見ごたえ満載の「松山城」です。連立天守のある本壇の見学を終えて、外へ出ました。

普通なら、このままケーブルカー駅に向かうのですが、私は最終的に二の丸庭園へ歩いて向かうつもりなので、ケーブルカーのチケットも片道しか購入していません。下山する前に、本壇外周を歩きました。

本丸内にある「本壇の石垣」だけでも、普通の城より「余程立派」です。石垣と言えば熊本城があげられるが、松山城も「勝るとも劣らない」惚れ惚れする石垣です。

今は崩れて「通行止め」になっているルートがある。このルートでの下山は不可ですが、この部分にも遺構があるので「見てみたい」と、迷っている時に出会ったのが「元ガイド」氏です。
道をお尋ねしたら、ご案内くださるということで、ご厚意に甘えました。
結果的に、この出会いで松山城を深く知ることが出来ました。

松山城で偶然出会った「元松山城ガイド氏」私より4歳上で76歳。足も言葉もしっかりした方でした。
何故「元」なのか?聞きませんでしたが、言葉の端から「現組織と方針(視点)が違った」のだろうと推測しました。

巽門から本丸を出て、本丸の石垣を見上げながらの見学です。
松山城への観光客は多いのですが、このルートを歩く人は、ほぼいません。

私は、元ガイド氏の案内で乾門まで歩きました。そこで本丸内に戻り、本丸南西側の石垣を見ながら、説明を聞くことが出来ました。

現存木造天守は12しかない。その理由は、
 ・明治の廃城令で解体された城が多い。
 ・次に、大東亜戦争の空襲で焼け落ちた城も多い。名古屋城や和歌山城は空襲で焼失している。そこで、元ガイド氏にお尋ねしました。

~松山には空襲はなかったのですか?~
これに対する回答は、
 ・松山は8回空襲を受けている
 ・空襲で一部の櫓が焼失している
そうです。ただ、松山城が「残った理由」は、米軍の配慮であったそうです。四国の空襲を担当した司令官が誰か知りませんが、明確に「文化財を避けている」そうです。
ちなみに、四国を代表する道後温泉には「一発の爆弾も落ちていない」そうで、こうして文化が守られた。
現存12天守のうちに、四国だけで4天守が残った理由がこれで理解できました。

乾門到着です。元ガイド氏は「ここからの松山城が一番美しい」という。私も同感でした!

乾門から本丸に入ると、正面に連立式天守の南北の隅櫓が見える。
松山城の連立式天守は、
 ・天守
 ・小天守
 ・南隅櫓
 ・北隅櫓
で構成されている。
南北の隅櫓は望楼を持っている。望楼は「各」を表すもので、ランキングは
 1、天守
 2、南北の隅櫓
 3、小天守
このようになるそうです。

私は、元ガイド氏の案内で、美しい石垣を見て歩くことが出来ました。
地形を生かしたということもあるのでしょうが、屏風のようにくの字に折れた石垣は、死角をなくすとともに、強度アップも兼ねている。今だに、石垣は崩れたことがないそうです。

松山城の復元には厳しいルールがあるそうです。
 ・資料のないものは復元しない
(最近は絵図面1枚で復元するところも多い)
 ・復元するなら木造で
 ・施工は「当時の工法・道具」で行う
空襲で一部の櫓が焼失しているが、このルールで復元しているそうです。

加藤嘉明が、25年の歳月を掛けながら、竣工前に会津に転封されている。
そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。
その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至りました。
松山城は、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」史観で語られていると、元ガイド氏は、嘆いていました。完成こそ見なかったが、大半を築いた「加藤嘉明」がもっと評価されるべきだとも。こんな想いが「元」の理由かもしれません。

この後、長者ヶ平から県庁裏登城道ルートを歩き、途中、登り石垣を見ながら、二の丸史跡庭園まで御案内いただきお別れしました。長い間ご案内いただきありがとうございました。
これで、現存木造天守12の全てを観終わりました。
ただ、天守にあまり興味がない時代に「偶然行ってしまった」所も多い。弘前城・松本城・犬山城・高知城などです。
出来れば、興味を持ってもう一度行ってみたいものです。
 追記
明治の廃城令を生き残った城がある。
 ・陸軍鎮台が置かれたことで生き残った城
  ⇒丸亀城
  ⇒広島城(原爆で消失)
  ⇒熊本城(西南の役で自ら放火)
 ・多くの生き残った城は、地元の有志が買い取ることで現在に続いている。
奈良の高取城、残る写真で見る限り「白亜の見事な山城」です。地元は「大和の金は今井にあり」と言われた金融の街であったが、買い取られることなく消滅した。余程、お殿様に人望がなかったのであろうか?残念です!


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