愛媛・城巡り■191017松山城 |
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昨夜考えたコースのママです。 松山城天守には、現在「4ルート」ありますが、創建当時は1ルートしかなく「今は使われていない」そうです。これは、途中で出会った、元松山城ガイド氏のお話です。 現在は「ロープウエイで長者ヶ平」まで行き、それから歩きで天守に向かうルートが主流です。私も、このルートを選びました。 ただ、帰りは「歩き」のつもり」で、チケットは片道だけ。私の予定では、 ・ロープウエイ⇒長者ヶ平⇒本丸⇒天守見学 ・古町口登城道(現在は崩壊しており通行止め)の一部を見学 ・本丸⇒長者ヶ平⇒県庁裏登城道⇒二の丸史跡庭園 松山城の魅力を知るには、結果的に、このルートが正解だと、あとで分かることになりました。 さあ、出発です! リフトも選べたのですが、私はロープウエイにしました。 松山城 https://www.matsuyamajo.jp/
加藤嘉明は完成を見ていないが、連立式天守の構えは嘉明の縄張りのママです。 ただ、5層だった天守は「3層天守に規模縮小」されて作り直されている。 元ガイド氏の話によれば「石垣の乱れなど全くない」堅固語な城ですが、天守付近の地盤が弱く、傾きが見られたため「負担軽減」のため縮小されたそうです。 |
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石垣と言えば「熊本城」ですが、松山城の石垣もとても美しい。瀬戸内海の御影石を使い、大石だけではなく、間に差し込む小石まで磨かれている。 本丸目指して進んでいくと、 写真上のように正面に天守が見えてくる。 往時は、柵のある部分に門があり正面突破は難しい。ちなみに、突破しても本丸には通じていない。これは戦力を消耗させるトラップです。 正面を諦め右へ折れると「戸無門」がある。文字通り「扉がない」ので、こちらに誘導される。 戸無門を通れば、筒井門で阻まれ、ここでさんざん射掛けられることになる。 筒井門の陰には、武者が攻め懸けるための隠門があり、執拗なトラップが仕掛けられている。加藤嘉明のマニアックな性格が窺がわれる。 本丸の標高は132m。分類は「平山城」になっているが、定義が分からない。 話が前後するが、この後であった元ガイドにおたずねしたら、このような回答でした。
登り石垣は1重の備えしかなく、長者ヶ平~本丸間のような「堅固な防御」があるとは思えない。 私の感想ですが、上り石垣は破られることを想定して、本丸+連立式天守だけで防衛できるように作られている。 更には、本丸に侵入された時に備えた防御が天守にある。もう「ここまでやるか!」と言う防御のトラップがある。 松山城は実戦を経験していないが、元ガイド氏の話によれば~研究家によれば「難攻不落」が定説~だそうです。ご案内いただきながら、私も納得しました。 |
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本丸の中に「本壇」と呼ばれる構えがあり、4つの門を破ってやっと天守に到達です。 それでは、本壇の構えを写真で紹介して行きます。 右の案内図と比べて欲しいのですが、 写真上正面に見えるのが天守です。突き当たって右へ曲がると「一ノ門」があり、曲がるたびに「二ノ門」「三ノ門」があり、5回曲がってやっと「筋鉄門」です。攻め手のどれだけがここへ到達できるのか。ここを破ってやっと「天守広場」になりますが、ここも4周が囲まれており、全周から射掛けられる。 連立天守を構築する建物群(4周の建物)の入り口は、玄関多門櫓と天守穴倉(写真上)しかない。 もう、マニアックな「殺戮装置」になっています。いままで見てきたお城では、本丸に攻め込まれたら「天守は城主が自害する時間稼ぎ」が精いっぱいとしか思えないものばかりでしたが、ここは違う。 なまじの兵力で攻め入ったら「ここですり潰される」だろう。 お城の内部です(小さな写真でゴメン!) 穴倉(ここで下足) 左周りで、天守広場を囲む建物群を見学 甲冑の試着。私も着たかったのですが、大人気で、とても順番待ちが出来なかった。 天守最上階 |
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普通なら、このままケーブルカー駅に向かうのですが、私は最終的に二の丸庭園へ歩いて向かうつもりなので、ケーブルカーのチケットも片道しか購入していません。下山する前に、本壇外周を歩きました。 本丸内にある「本壇の石垣」だけでも、普通の城より「余程立派」です。石垣と言えば熊本城があげられるが、松山城も「勝るとも劣らない」惚れ惚れする石垣です。 今は崩れて「通行止め」になっているルートがある。このルートでの下山は不可ですが、この部分にも遺構があるので「見てみたい」と、迷っている時に出会ったのが「元ガイド」氏です。 道をお尋ねしたら、ご案内くださるということで、ご厚意に甘えました。 結果的に、この出会いで松山城を深く知ることが出来ました。 松山城で偶然出会った「元松山城ガイド氏」私より4歳上で76歳。足も言葉もしっかりした方でした。 何故「元」なのか?聞きませんでしたが、言葉の端から「現組織と方針(視点)が違った」のだろうと推測しました。 |
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松山城への観光客は多いのですが、このルートを歩く人は、ほぼいません。 私は、元ガイド氏の案内で乾門まで歩きました。そこで本丸内に戻り、本丸南西側の石垣を見ながら、説明を聞くことが出来ました。 現存木造天守は12しかない。その理由は、 ・明治の廃城令で解体された城が多い。 ・次に、大東亜戦争の空襲で焼け落ちた城も多い。名古屋城や和歌山城は空襲で焼失している。そこで、元ガイド氏にお尋ねしました。 ~松山には空襲はなかったのですか?~ これに対する回答は、 ・松山は8回空襲を受けている ・空襲で一部の櫓が焼失している そうです。ただ、松山城が「残った理由」は、米軍の配慮であったそうです。四国の空襲を担当した司令官が誰か知りませんが、明確に「文化財を避けている」そうです。 ちなみに、四国を代表する道後温泉には「一発の爆弾も落ちていない」そうで、こうして文化が守られた。 現存12天守のうちに、四国だけで4天守が残った理由がこれで理解できました。 |
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乾門到着です。元ガイド氏は「ここからの松山城が一番美しい」という。私も同感でした! |
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松山城の連立式天守は、 ・天守 ・小天守 ・南隅櫓 ・北隅櫓 で構成されている。 南北の隅櫓は望楼を持っている。望楼は「各」を表すもので、ランキングは 1、天守 2、南北の隅櫓 3、小天守 このようになるそうです。 私は、元ガイド氏の案内で、美しい石垣を見て歩くことが出来ました。 地形を生かしたということもあるのでしょうが、屏風のようにくの字に折れた石垣は、死角をなくすとともに、強度アップも兼ねている。今だに、石垣は崩れたことがないそうです。 松山城の復元には厳しいルールがあるそうです。 ・資料のないものは復元しない (最近は絵図面1枚で復元するところも多い) ・復元するなら木造で ・施工は「当時の工法・道具」で行う 空襲で一部の櫓が焼失しているが、このルールで復元しているそうです。
この後、長者ヶ平から県庁裏登城道ルートを歩き、途中、登り石垣を見ながら、二の丸史跡庭園まで御案内いただきお別れしました。長い間ご案内いただきありがとうございました。 これで、現存木造天守12の全てを観終わりました。 ただ、天守にあまり興味がない時代に「偶然行ってしまった」所も多い。弘前城・松本城・犬山城・高知城などです。 出来れば、興味を持ってもう一度行ってみたいものです。 |
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追記 明治の廃城令を生き残った城がある。 ・陸軍鎮台が置かれたことで生き残った城 ⇒丸亀城 ⇒広島城(原爆で消失) ⇒熊本城(西南の役で自ら放火) ・多くの生き残った城は、地元の有志が買い取ることで現在に続いている。 奈良の高取城、残る写真で見る限り「白亜の見事な山城」です。地元は「大和の金は今井にあり」と言われた金融の街であったが、買い取られることなく消滅した。余程、お殿様に人望がなかったのであろうか?残念です! |
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