愛媛・城巡り■191016宇和島城

11:33定刻に宇和島駅到着。岡山からお越しいただいた林さんとも無事合流です。

この日は「祭礼」があるようで、若衆が集まっていました。そういえば「日本一高い石鳥居」があるとwebに載っていた。
7月には、有名な牛鬼祭りもあるそうですが、それは次の機会に。

駅から、宇和島城天守が見える。目視で歩きはじめる。
この日は16時まで歩き続けた。
歩数は15,000歩(約9㎞)で、二人とも健脚です。その第1目標が宇和島城天守です。

登城口に着いた。
この門は、桑折(こおり)氏武家長屋門を移築したもので、昔からあったわけではない。
門をくぐれば、いきなり胸突き八丁のキツイ石段です。但し、今は緩やかなスロープ道も用意されている。

現在の地に初めて天守が建造されたのは慶長6年(1601)藤堂高虎(とうどうたかとら)築城のときとされています。城の外郭は上から見ると不等辺5角形をしており、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられます。

高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成。その姿を現在に残しています。


今では、陸に囲まれ、普通の「平山城」かと思ってしまうが、古地図を見ると、宇和島城が海城であったことが分かる。
城から海に通じる複数の間道もあったそうで、この城が「瀬戸内の海賊衆を束ねていた」と言われる。

変形5角形の城郭で、海側は埋め立てらえたが、お濠の面影は今も残る。
地形的な制約があったのだろう、大きな城郭ではない。

今は本丸(天守)を残すばかりで、往時の城郭を偲ぶのはシンドイ。残念ながら城下町もほとんど残っていない。

宇和島城の沿革は、ここに詳しく記載されている。藤堂高虎は城の完成を見届けただけで、明治まで伝えたのは伊達家であった。
ちなみに、幕末は「開明君主」として有名で、日本初の蒸気船を作っている。明治陸軍を創った村田蔵六(大村益次郎)はこの君主により見出されている。
大きな城ではないが、歴史を見るとき「興味深い」藩である。


大井戸や三の門跡を通り、キツイ石段を登る。あと少しと言うところでふり返ると天守が見える。
上記写真のエリアで、本丸と二の丸群です。

当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に2代目藩主伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられたという。
改修と言うが、絵で比較する「作り替えた」と言った方が早い。


宇和島城は、中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある
高虎が築いた天守は望楼を持つ「戦闘用」であった。
望楼は、物見台であり、旗を使った戦闘指揮も行う目的があっただろう。
物見台は『着見(つきみ)台』と書かれた。
味方の到着(ここなら水軍の集結)や敵の襲来を知る重要な施設です。

伊達氏によって作り替えられた天守には望楼はない。更には、狭間や石落としもない華麗な姿になっている。それは平和のシンボルであり、徳川への恭順を示すものであっただろう。

天守の階段は60度以上の傾斜で、年寄りには上り下りが辛いものがあった。

これで、天守見学は終わり。
帰りは、搦め手門側に下山、途中に「城山郷土館」へ立ち寄ります。
郷土の偉人を紹介する「城山郷土館」です。
弘化2年(1845)、三之丸に建てられた武器庫で、現存例の少ない稀少な建物です。昭和41年、伊達家より譲渡され、城山内に移築後、城山郷土館として一般公開し、民俗資料や古写真など展示しています。
このように紹介されています。
用途は、武器庫⇒米蔵⇒郷土館と変遷しています。用途が変わるたびに「移築」され、場所が変わっています。

まあ、こんな時は「建築屋の目」でつい見てしまう。
用途や場所が変わっただけではなく、平面形も変り、当然「構造の変化」もあったはずです。
 ・柱に「ほぞ穴」が残っている
  (壁が撤去された跡)
 ・明らかに増築した跡がある
現在の郷土館は、スケールは小ぶりですが「富岡製糸場」に雰囲気が似ています。
明らかに「西洋の木組」で、明治維新以前の構造ではない。
用途変更移築の際に、木材は利用したが「構造は変えた」ということであろう。

それはそれで「面白く」見学しました。
搦め手にある「上り立ち門」から出て、城山ともお別れです。

これから、7代藩主伊達宗紀が隠居所として造営した「天赦園」へ向かいます。


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