愛媛・城巡り■191016大洲城下町と臥龍山荘


おはなはん通り
大洲の城下町は東西1㎞。
西端に大洲城があり、城下町を挟んで、東端に臥龍山荘がある。

短い脚を精いっぱい繰り出して早足で歩く。
14世紀に、宇都宮氏が城を構えた「歴史ある街」です。
大洲は、2時間で通過するには、勿体ない街ですが、私にはどうしても立ち寄りたい動機があった。

妻が逝って早15年になります。
大阪で生まれ、戦災を避けるため大洲に疎開、小学校卒業まで「この街で暮らした」と聞いていた。
「何時か行こう」と言いながら、約束が果たせぬまま逝った妻。いまとなっては「大洲の何処だったのか」も分かりません。

妻が逝った後、私は妻側の親族から縁を切られており、聞くこともできません。
せめて「こんな町だったのか」と、偲ぶことが出来れば思いました。

松山から大洲へ向かう途中、資料に目を通した。
大洲を切り開いた宇都宮氏は、河野・毛利連合軍によって滅ぼされている。
そういえば、
 ・大洲の親戚は「河野」だったなあ…
 ・お土産は一六タルトとジャコ天だった…
など、思い出された。

おはなはん通りを歩く。

おはなはんを演じた樫山文江さんに、家内は良く似ていたことも思い出される。
古い街並みを歩きながら、自然と涙が出ていた。




清吹(せいすい)の間





霞月(かげつ)の間



不老庵
臥龍山荘到着。
 http://www.garyusanso.jp/
肱川に面した丘陵地に作られた山荘です。その歴史は古いのですが、現在の山荘は明治期のものです。
この地を『臥龍』と命名したのは、大洲藩第3代藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから名付けたものと言われています。清流肱川湖畔のもっとも優れたこの景勝地に初めて庭園を築いたのは文禄年間、藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛の時代に遡ります。

現在の山荘は、明治時代に新谷出身の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎(常住地:神戸)が、老後の余生をここで過ごしたいと大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘です。
小京都と言われる大洲ですが、臥龍山荘の繊細さは、京でもめったにお目に掛かれないと思う。



■清吹(せいすい)の間
明暗を使い分けた見事な透かし欄間です。
この部屋は夏向きに造られており、北向きで風通しがよく、天井は他よりも高く、涼しさを感じさせる細工が随所に見られます。
神棚の下の広い書院の欄間には、桜の花に筏で春、右側には水玉で夏、左側の壱是の間との間の欄間には菊水で秋、仏間のと間には雪輪窓で冬とそれぞれ水にちなんだ彫刻がなされています。

■霞月(かげつ)の間
この部屋は京都大徳寺玉林院の霞床の席に案を得ています。違い棚を霞に見たて、掛け軸には富士山が描かれており、丸窓の奥には仏間があり蝋燭の明かりが灯されると月明かりのようになり、月に霞で霞月の間というわけです。右手の襖もあえて鼠色で薄暮を表現し引手にはコウモリの細工が施されています。壁の一部を塗り残し、荒れた農家の風情を表し、さびさびの表現がされています。和紙で仕上げた天井、床柱を省いた通し落とし掛け、縁側廊下には仙台松の一枚板が使用され、時雨高欄など、細やかな細工が施されています。
私は、係員氏から「自慢話を聞いていただけませんか」と話し掛けられました。
自慢話と言うのは『霞月(かげつ)の間』の
微細な配慮についてでした。文章にすれば、HPの引用のごとくですが、現地で目の前にして聞く「自慢話」は素晴らしいものがありました。

臥龍院拝観の後、庭園を散策。
借景をうまく活用した、しゃれたお庭です。
お庭の突き当たりの、肱川に半島のように突き出た場所に「不老庵」があります。
侘びのある佇まいですが、これも大きな仕掛けでした。

不老庵のアーチを描いた「網代貼り」の高い天井を持つ茶室に、思わず息をのむ。外観と違うその艶やかなこと!
思わず「やられた!」と口から出た。

これで、臥龍山荘の見学は終わりです。

  (タクシーを待つ間に撮影)

係員氏にタクシーを呼んでいただき、駅へ向かいました。
タクシーで駅に向かう途中、肱川湖畔にそびえる大洲城の天守が見えました。

無事に、予定の特急に間にあい、宇和島へ向かうことが出来ました。
家へ帰り、集めた資料を見直しました。
2時間の「駆け足訪問」が如何に無茶かよく分りました。機会があれば「ゆっくり訪問したい街」ですね。


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