愛媛・城巡り■191016大洲城

6時に起床。シャワーを浴びてから、買置きのパンとジュースで朝食。
いよいよ「城巡り」開始です。

JR松山駅8:09発の特急で大洲へ向かいます。この日の予定は、宇和島駅11:33着の特急で、岡山から着てくださる林さんと合流です。
私は2時間早く出て、大洲城を見学します。
松山を出て40分、予定通り大洲駅に着いたのですが…一瞬呆然です。

駅前には、バスもタクシーもない。
駅からお城まで1.7㎞、徒歩30分とあるだけです。
時間があれば、1.7㎞など問題ではないのですが、何せ「2時間後の特急」で、宇和島へ向かう必要があります。城への往復で1時間消費するのはとても痛い。

駅員に聞いたみたのですが
 ・バスはない
 ・タクシーのことは知らない
と、まるで「観光客へのおもてなし」に熱心ではない。

何とか、タクシー会社の電話番号を見つけ電話しました。1軒目は「無理」という回答、でも2軒目で「5分で行きます」と言う回答を得てホッとした。

大洲では、大洲城見学後城下町散策して臥龍山荘まで向かいました。
大洲城と臥龍山荘は対極にあり、その間は小さな城下町です。道路も狭く、城下町は「歩いて散策」がベストです。
ただ、地図で見ても分かるように駅からは離れています。

大洲城や臥龍山荘の係員さんはとても親切で、どちらも楽しむことが出来ました。
駅前の観光案内所の職員さんも親切で「大洲には城しかありません」と嘆いていましたが、その「城」がとても素晴らしいことに気付いていないようでした。

この街で欠けていると思ったのは、駅と大洲城や臥龍山荘を結ぶシャトル便です。これさえあれば、城下町を歩くのがベストですがら、とても魅力的な観光資産だと思います。
大洲城は平山城です。
外観から「連立式天守」と思っていたが、全体模型を見ると、そうではないようだ。
  http://www.ozucastle.jp/
大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。

 ●大洲城年表
 ・元弘元年(1331) 宇都宮豊房が地蔵ケ岳に城を築く
 ・天正13年(1585) 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となる
 ・天正15年(1587) 戸田勝隆16万石で大洲に入城。宇和郡、喜多郡が領地となる
文禄4年(1595) 藤堂高虎7万石で板島に入城。大洲は蔵入り地となり高虎が代官となるが、すぐに大洲を居城とする
  (途中略)
 ・昭和32年(1957) 台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定される
 ・昭和34年(1959) 苧綿櫓の解体修理を完了、土台の石積みを2.6メートルかさ上げする
 ・昭和40年(1965) 三の丸南隅櫓の解体修理が完了
 ・昭和45年(1970) 台所櫓、高欄櫓の解体修理が完了
 ・平成14年(2002) 天守復元工事起工
 ・平成16年(2004) 天守復元工事完成
HPを見ても、誰かが「一気に造り上げた」城ではないようです。

天守は平成16年の復元ですが、現存の天守に付随する二棟の櫓は、重文指定の古来のものです。

復元された天守は、
 ・木造で復元
 ・明治の廃城令で天守は取り壊されたが、木造模型(ひな形)が残っていて、忠実に復元されたそうです。

天守からは城下町が一望できます。
お濠を兼ねた肱川は、今も鵜飼が行なわれ、夏は3度の花火大会があるそうです。

それでは、お城の内部に入ります。
年表を見ても、復元のモデルとなった天守を「誰が造ったのか?」分からない(脇坂安治と推測されているらしい)。
それでも言えることは、戦闘用に作られたものでない。
 ・望楼がない(戦闘用なら必須)
 ・階段が緩い(45度もない)
  ⇒一般的な、天守の階段は「階段を最後の防御線」にするため、60度以上の傾斜を持つ
何よりも驚いたのが「吹抜け」を持つことです。多くの天守を見てきたが、吹抜けを持つ天守は初めてです。

信長の居城であった「安土城」の史料館に、天守の一部が復元されており、そこには吹抜けがあるが、本当の安土城にはなかったそうです。
安土城の一部復元では、資料として残っていた「プレゼンテーション」を参考にしたものだそうです。

緩い階段や吹抜けは、復元時にアレンジしたのではないかと、係員氏にお尋ねしました。復元の根拠になった「往時の木造模型(ひな形)」も、緩い階段や吹抜けがあるそうです。

江戸時代のどこか「平和な時代」に作られた天守と思うが「遊び心」があるもんだと、感心した。

お城や駅の案内所の係員氏に「吹抜けのあるお城」として、もっと自慢してよいのではないかとお伝えしましたが、さて?価値が伝わったでしょうか。

重文の櫓は4棟ある。
内2棟は天守と共に本丸を形成しており、他の2棟は少し離れている。

今は、肱川しか残っていないが、古地図を見ると本丸の下に二の丸が続き、その周囲には濠があった。更に肱川から水を引き、幅広な濠が三の丸に添って掘られていたことが分かる。
2棟の櫓は、その堀に面して建っていたことが分かる。

天守を後にして、残りの櫓に向かう。
この時で40分経過です。
残り80分で、2棟の櫓を周り、それから東西1㎞の城下町を見学散策。最後に臥龍山荘を見学して、駅まで辿り着かなければなりません。
いつもにもまして「早足」で移動開始。
本丸エリアを出て、石垣に添って肱川へ向かって歩くと「芋綿櫓」が見えてきた。
今はありませんが、お堀を守る隅櫓の役目であったと思います。今は名残の水門があるのみです。

水門脇を登ると「広い通り」に出ます。
ここが「かつてのお堀」であったところです。

更に歩き、かつては「三の丸」があったお殿様公園へ。この一角に「南隅櫓」があります。お堀に面した櫓であったのですが、今では奇異な感じします。

私も、旅行から帰り、地図や資料、それに撮ってきた写真とうを照合して「やっと理解できた」ことが多い。
これで、大洲城見学は終わりです。


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