home 福山・尾道紀行 171019‐1020 |
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171019 『+1の旅』再開です。 降って湧いたような山陽小野田市での仕事が、一気に動きだした。待ってましたとばかりに、旅心がうずく。 2010年の山陽小野田市での仕事では、山口県下の「主な歴史的観光地」を周ったが、今回は「山陽道の城廻」を考えている。と言っても、沿線近くの城は少なく「足」の制約がキツイ。これはじっくり作戦を練る必要がある。 10月18日早朝、家を出て山陽小野田市へ向かう。打合せと現場調査が済んだのが、19日のお昼です。 小野田駅13:11発のローカル線で出発。厚狭乗り換えで美祢(美祢線)へ向かう。僅か1両のワンマンカーで2時間に1本の超ローカル線です。 宇部土木事務所美祢支所での調査を終え、業務終了。 いよいよ『+1の旅』開始です。 |
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厚狭まで戻り、ここから新幹線で福山へ向かいます。 厚狭で「レールスター(こだま)」のチケットを購入。だが、1時間に1本のこだまは出た直後で、駅で50分待ち。 売店も土産物店もないローカル駅です。在来線駅で購入したビールで時間つぶし。まあ『+1の旅』らしい出だしです。 同行のAさんとはここでお別れ。 私は、レールスターで福山へ向かいますが、Aさんは新山口でのぞみに乗り換えて新大阪へ向かう。 笑ってしまったのが「到着時間」です。Aさんが新大阪へ着く時間と、私の福山到着時間が殆ど同じでした。 レールスターは2座席で快適なのですが、駅ごとに10分ほど停車して追いは、抜かれていく。「車外の自販機をご利用ください」とアナウンスが入るほどのノンビリです。 |
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なんとも中途半端です(待ち時間がカットできるなら、2時間は早くついただろう)。 長男の嫁に迎えに来てもらった。 が、呑みだすには時間が早すぎる。で、今回のリクエストの一つ「尾道ラーメン」で下地作り。久々の「背油の味」です。 尾道ラーメンにしては、やや「あっさり系」で美味しかった。 下地作りが多すぎて、海鮮料理の店へ着いたときは満腹状態でした。 結構注文したのですが、 ・ホタルイカの沖漬け ・お造り盛合せ ・シャコの天ぷら(私はこれを、ジャコ天と読み間違えていた。でも、シャコはとっても美味しかった) この他もたくさん注文したのですが、それば息子の腹へ。私は焼酎をしこたま飲んで、しっかり酔いました(海鮮料理の多くの写真は撮り忘れた)。 長男と、久しぶりに話をしました。何かと健康に問題を抱えており、私の気がかりの一つです。2年前に職場を変わり、ハードになった代わりに「立ち位置」も固まったようで、いまは元気に働いているようでした。 |
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171020 長男の家に泊めてもらいました。 朝飯を一緒に食べて、私は散歩へ。30分ほど歩いたのですが、江戸時代の干拓地だそうで、ひたすら平らです。 住宅が立ち並び、ところどころに放置されたような農地がある。様々な作物があまり手入れもされずに出来ていた。 呆れたのは、角地の一等地の「墓」です。 普通は、住むのも農地にも向かない地を墓にするのです。まして、苦労した干拓地の一等地を墓にするどんな事情がったのだろう?とても興味がわきます。 |
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まずは「福山城」です。http://www.geocities.jp/shanehashi/Travel/Japan/Oshiromeguri/FukuyamaJyo.html 公園内には、 ・歴史博物館 ・美術館 があるのですが、天守を含めて「開園時間前」とことで、外から「見るだけ」でした。 展示品に「刀剣」があり、なかなかの人気だとか。これはちょっと見たかったな。 公園でのイベント多いそうで「良い企画」がで、億単位の収益をあげているというから凄い。箱を作れば満足と言ったアトリウムが多いだけで、関係者の努力に敬服します。 次回(機会があれば)ゆっくり鑑賞してみたいです。 近くに結構式場がある。 ここは、ポルノグラフィーの出身地で、この式場で盛大な結構式を挙げたそうです。 と言いうことで、駆け足で福山城見学は完了。 |
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しまなみ海道で因島へ到着。ここでは「村上水軍ゆかりの地を巡ります。 まずは、大山神社です。
ここは、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)から分祀された。 大山祇神社は、戦国武将から奉納された刀剣で有名です。 場所(愛媛県今治市大三島町宮浦)が離れており、今回はとても無理でしたが、何時か行ってみたいですね。 |
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金蓮寺は村上氏の菩提寺ですが、案外小さいことに驚きました。 墓石の多くは砂岩でできており、墓碑の読めないモノが多い。村上水軍の財力で、御影石の墓石は出来なかったのか?と、ちょっと不思議でした。瀬戸内は、御影石の産地でもあるのにね。 海賊城は胡散臭い。 城と言えば「天守と石垣」のイメージですが、戦国期の城は「土塁と物見やぐら」です。織田方の九鬼水軍に敗れた村上水軍は、戦国期以降まで残ってはいない。こんな城を持っていたとは思えない。 ということで、この城も「下から見るだけ」で通過しました。 ちなみに、「天守と石垣」は平和になってからの権威づけでした。 |
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因島から尾道へ向かいます。 どんよりした天気ですが、からの必要はなしです。 尾道は小さな町でした。そして「坂の街」です。そんなことから駐車場が極端に少ないとか。その点、千光寺公園なら「終日600円で駐車できる」と言うことで、そちらに向かいました。 |
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視野に「天守閣」が入った。 これは、お金持ちが道楽で作ったものだそうで、古から城があったわけではないそうです。ただ、山城があってもおかしくはない場所です。ちなみに、今は廃屋になっているとか。 眺望を楽しんでから、千光寺へ向かう。 結構きつい石段を気を付けながら下る。 お参りを済ませた後、本堂は「撮影禁止」を知らず、写真撮影。しっかり叱られた(でも、なんで禁止なんだろう)。 これで、下界を目指して歩きだした。 |
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予定の食事場所は港に面している。つまり、尾道最大の高低差の移動になる。 途中、笑福亭の「八朔大福」で休憩。「おのみち文学の館」に立ち寄る。 瀬戸内を見下ろす斜面には、明治大正の別荘が立ち並び、それが活用されている。 笑福亭も、おのみち文学の館もそんな1棟に違いない。ひずみのある「ビードロガラス」が楽しい。 おのみち文学の館には、著名な作家の作品が展示されている。志賀直哉氏の「住んだ家」がここにもあった。私が知るだけでも、龍野や奈良にもある。きっと、転々と住居を替えたのだろう。 千光寺山頂に通じる道は「文学のこみち」になっていて、古今の歌碑がる。熱心に撮影する人がいたが、きっとファンなのだろう。 千光寺のあるお山全体が「猫の道」になっている。もう、あちこちに猫がいて、人馴れしたネコはすり寄ってくる。 子供のころからこの町で育てば「足腰が鍛えられる」のは間違いはないが、老後にはキツイ街です。やはり、老人の減少が進み、空家の問題もあるそうです。 坂の途中に踏切があるのも尾道ならではと思うが、それ以上が「緑色のホース」です。これは、バキュームホースで数百メートル延びていた。坂上から順に、汲み取りをしているのだろう。坂下にはバキュームカーが連なっていた。 |
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やっと港についた。 丁度フェリーが出港したが、向かう先は「むこう岸」です。狭い海峡で、だからこそ村上水軍による「みかじめ料」の徴収が出来たのだろう。 今も、向こう岸へ渡るには、しまなみ街道の大橋を大きく迂回するしかないということで、急ぐ車の利用は多いようでした。 海に面して「北前船」と言うお店があった。 「そうか~」北前航路は、北海道から大阪へ「身欠きにしん」を運ぶルートでした。日本海を周り、下関から瀬戸内に入るので、ここも立派に北前航路なのでした。 |
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14:55初ののぞみで帰路に着きました。 長男の嫁には大変お世話になりました。ありがとう! 順調にくろしおに乗り継いで、夕食前に帰宅しました。 それからは、出張の議事録作りで大車輪。業務完了は、もう日付が変わる少し前でした。 さて!次の「+1」は何処に行こうかな… |
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