home 清洲散策 170126 |
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昨日は横浜出張、仕事を終え、豊橋で旧友と新年会。昨夜は豊橋泊りでした。 26日、豊橋を8時過ぎに出発し、JRで名古屋へ出て、そこからは名鉄で「清洲」へ向かいました。 横浜出張を利用した「城廻り」では、 ・小田原城 ・駿府城 ・浜松城 ・掛川城 ・高天神城 ・横須賀城 と周ってきました。最後に残ったのがこの「清洲城」です。 事前の調べで「分らないこと」が多かったのですが、分からない理由がおぼろげに理解できました。 まず、地図を見てください。 清洲城址が鉄道で分断されています。清洲と言えば、織田信長と縁が深く、有名な歴史遺産です。 なのに、城址が分断され、天守再建は別の場所で行われた。そんな「馬鹿な!」です。 以下は清洲の沿革です。 ・1405年:尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。または1375年とも ・1478年:守護所が清須(=清洲)に移転することで尾張国の中心地となった ・1555年:織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。 ・1562年:信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟) 〜この当時、清洲城には天守はなかった〜 ・1582年:本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。 ・1586年:信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われた ・1595年:福島正則の居城となる ・1600年:関ヶ原の戦いの折りには、東軍 ・1607年:家康の九弟徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった ・1609年:徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令される ・1610年:清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用された。 |
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天守の展示資料を読むと、清洲城址も「確率の高い推定」だという。 最盛期に三重の堀を持つ総構え(町ごと堀と城壁で囲む:写真右を参照)の町であったというが、堀の後も現存しない。 清洲越しの後は「農地に帰した」とあり、遺構すら残さず『消えた』と分かる。 鉄道が敷設されたころは「単なる農地」で、歴史遺産の意識もないままに開発されたのであろう。 1989年天守が再建されたが、往時の資料は何もなく、天守の規模も形も根拠はない。まったくの想像の産物です。 天守で観光マップを入手したが、町ごと棄却された傷は深く、城とリンクするお寺や神社もない。 1616年に「清洲宿」が再建され、現存する施設はそれ以降のもので、清洲城とは縁がない。 「信長の居城」と言えばすごいインパクトだと思うが、観光資源発掘のための調査が行われている様子は感じなかった。それとも「遺構調査なの意味がない」ほど、徹底的に破壊されたのだろうか。 清洲城観光を終えて電車を待つ間、目についた看板がコレ! 駅前ロータリーに「非核・平和都市宣言」です。 ひところ流行った「頓珍漢なサイン」です。地方自治体が核兵器を持つはずもない。まさに意味のないモノです。これは〜この自治体はサヨクの支配下です〜という宣言に等しい。 横浜出張を利用した「+1の旅」では、いくつもの城廻りを行ってきました。 知名度で群を抜く清洲城ですが、熱意ではスコアは低い。 清洲の旅では「分らないこと」が多かったわけで、ボランティアガイドさんか研究員さんがいれば、いっぱい質問したかったのですが、それも出来ませんでした。案外、自治体トップに観光立地の熱意がないのかもしれませんね。 名古屋へ戻り昼食です。 ふるさと「愛知」で食べたかったものは、 ・稲荷ずし ・味噌カツ ・きしめん です。 稲荷ずしは豊橋駅で購入し、朝食代わりに食べました。甘辛く煮しめた稲荷が懐かしかった。 昼食は、味噌カツかきしめんかで悩みましたが、きしめんの長蛇の列をみて、味噌カツにしました。目は「両方食べたい」でしたが、お腹が受け付けません。 カツも懐かしかったのですが、八丁味噌の味噌汁も嬉しかった。具は、5o角に切った豆腐。これが「ふるさとの味噌汁」だと、感激でした。 次週は最後の「+1の旅」です。目的地は『高尾山』 31日に新宿で泊まり、早朝から高尾山へ向かいます。さて?どんな道中になりますやら… |
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