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161202-03

 161202前夜祭
出張を利用しての「+1の旅」のチャンスもあとわずかとなりました。
12月2日、横浜での業務を終えて静岡に向かいました。翌朝から駿府城を散策することが目的です。もう冬至も近づき、5時を過ぎれば暗くなります。どっぷりと日が暮れて、駿府城近くのホテルに宿をとりました。
ホテルフロントのおばちゃんの紹介の店へ行きました。
料理自慢の居酒屋で、料理も酒も旨かった!
 ・カツオのたたき(出来たて)
 ・自然薯とろろ
 ・ご当地名物「桜エビのかき揚げ」
これをアテに、ビールから日本酒に切替えて呑みだしたのですが…

お店が立て込んできて「席を替わって」と言われた。変わった先の隣がヘビースモーカーで、僅かな時間に「灰皿のお代わり」をする。とてもじゃないが傍にいられない。
ほかの客は、たばこを吸うときは「外で吸ってくる」のに、店主はこの客には注意をしない。

タバコで追い出されるようにして店を出た。
全く呑み足らない!
コンビニを探して、城に沿って繁華街へ出た。コンビニを見つけて、ビールとアテと「明日の朝食」を購入し、ホテルで呑みなおした。

ところが…
部屋が冷えてきた。暖房をつけても動かない。フロントに連絡して来てもらい、やっと動いたのですが、結局「暖かくならな」かった。
この夜は、下着を着込んで休んだ。
(やっぱりホテルはメジャーを選ぼう)

 161203城廻り
寒さもあって早朝から目が覚めた!買い置きのパンと牛乳で朝食を済ませ、7時から「城巡り」開始です。
駿府城
駿府は、今川氏が本拠を置いた地で「京と比べられたほど繁栄した」というが、何処に舘があったのか?定かでない。
とは言え、おそらく駿府城がその地であったのだろう。

家康は、生涯で一番長くこの地で暮らしている。
 ・今川家での「人質生活」
 ・戦国大名として
 ・大御所としての隠居城
現駿府城址は、家康が隠居(院政を敷く)に当たり、三の丸を拡張して、西国大名に「天下普請(大名の財力を削ぐ目的)」を命じて作ったものである。

現地図と往時の城郭模型を比べていただきたい。駿府城は全くの平城で、総構えではない。大阪城を大砲で攻めた家康にしては堀も広くない。本気で「攻防」を考えたとは思えない。
掘りは、
外堀〜二の丸堀(中堀)〜本丸堀(内堀)からなっている。
 ・外堀はいまも3/4は残っているが、中堀まではオフィス街となっている。
 ・中堀の内側が「駿府城公園」として開放されている。
 ・内堀はホンの僅かしか残っていない。
公園内を対角線で歩けば10分ほどです。大阪城を見慣れた私には「大きな城」と言う印象はない。これはちょっと意外でした。それでは、駿府城をご案内します!
巽櫓(1989復元)と東御門(1996年完成)有料で見学

駿府城公園内に、江戸時代の建物はない。内堀も一部発掘されただけで、天守閣の石垣は只今発掘中である。

駿府は火災が多く、宝暦大地震でも多大な被害を出している。そのため、江戸時代でも復元されなかった建物も多いようだ。
更には、1870年に明治政府により払い下げられ、殆ど解体された。それを今、多大は費用で復元中。
東御門は防御の要で、当然「枡形」の構成です。
写真左は、東御門の内部。案外壁が薄いので驚いた。砲丸(弾)を打ち掛ければ、一たまりもなかったであろう。ここでも、家康の「大阪城攻め」の教訓は生かされていないと感じた(つまり防衛の城ではない)。

ボランティアガイド氏がいるのですが、時間がなくてスルーした。これはとても残念!


天守の石垣は「只今発掘中」です。その費用の寄付を募っており
 (1)富士・・・100万円
 (2)鷹・・・・・50万円
 (3)茄子・・・10万円
その下に「この寄付は天守再建を約束するものではありません」と断っていた。思わず微笑んだ。
天守の絵図は残っており「江戸城の天守より大きかったかもしれない」とある。ただ江戸城の天守同様、駿府の天守も短命で「都合3回建設」されたそうだが、江戸中期以降再建はされていない。

二の丸掘りの一部が発掘されている

天下普請で駆り出された大名の紋が残る石(石垣用?)
家康公立像
駿府城公園はまさに「公園化」されており、早朝からウオーキングする人が多かった。
周りに官庁や学校があり、公園内は、通勤通学で賑わうだろう(この日は日曜日だった)。
当日、ここがスポーツイベント(恐らく駅伝)のゴール地点のようで、各地から凄い人で出会った。時間が早いこともあってか、観光客は少ない。
掘りの外も「城に拘った」意匠はなく、いままで「観光資産」として考えてこなかったように感じました。

坤(ひつじさる)櫓
2014復元(有料)で見学

三層構造の櫓で「武器庫」として使用されていた。武器庫の管理は、複数大名の持ち回りであったという。

櫓内部では、建物構造を見やすくするため、床板の一部をガラス張りにして礎石、根太、大引や2階3階の床板の一部を取り外し松丸太の小屋組みを見ることが出来る。

再建に際し工事は宮大工がこれに当たり〜古来の工法を踏襲して釘の類は一切使用していない〜と、ガイド氏は自慢であったが、本当だろうか?
史実剛健を要求される建物に宮大工は必要ない。強度を増す「犬釘の使用」があった方が素直に思う。
また、木材だけで2億800万円を投じて「無節の木材」を調達したそうであるが、これも不思議である。
大阪城にも武器庫に使用した櫓が現存するが、もっと質素で剛健である。
それとも、「無節の華美な建物だった」と言う記録でも残っているのだろうか?

紅葉山庭園(有料で見学)

小堀遠州作の本丸御殿の庭〔紅葉山庭園〕は、現存しない。
名前だけ引き継いで現在の場所に造られている。このため大御所家康公時代の庭園ではなく、場所も異なっている。
ただ、見応えのある庭園に違いない。

江戸城にも「紅葉山」があった。紀州徳川家は「紅葉谷庭園」である。
徳川家と「紅葉」に如何なる所縁があるのか?知りたかったが、関連を知る資料はない。

これで、見学は終わり。有料施設は9時オープンで、3施設を1時間で回るのはきつかった。
この後、静岡駅に向かって歩き、JR在来線で「菊川」へ向かいました。
今回は、城巡りに頭が行ってしまい、見逃したものが多い。近くに「登呂遺跡」があるし、少し足を伸ばせば「久能山東照宮」がある。JR沿線には、三島・焼津・など古代史に登場する地名が連なる。ここも「歴史に宝庫」なのだと知った。それは、次の楽しみにとっておこう
続き









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