home 静岡「城廻り2」 161203 |
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食後「掛川へ」向かいました。 | |||||
掛川城 | |||||
新幹線の車窓から「小高い丘に美しい城」が見える。それが掛川城です。 実際にって見ると、街中にあり意外な感じがした。町は城に合わせ「城下町風」に整備されていて、良い雰囲気です。 なお、天守の再建は篤志家による「5億円の寄付」で賄われたそうである。 木造で再建されているが、古式に拘っておらず、ボルトや金物も使われているが、品位を損なうものではない。 |
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掛川城沿革 永禄三年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄十一年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期に渡る攻防の末和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。 天正十八年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。江戸時代中期以降は太田氏(太田道灌の子孫)の居城として続き、明治を迎えている。 嘉永七年、安政の大地震により天守閣など大半が損壊し、御殿・太鼓櫓・蕗の門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治二年廃城となりました。その後、御殿は様々に使用されながら残りましたが、天守台や本丸の跡など一帯は公園とされてきました。掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は平成六年に140年ぶりに木造で再建され、ふたたび美しい姿を現しました。 |
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国内外からの観光客も多く、活気に溢れたお城でした。 質実剛健を旨とした城で、天守からの眺めを見れば、敵の布陣が一目でわかる。まさに、「攻城戦」を体験した城だと理解できる。 |
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天守の石垣は「間知石(切石)」を使っている。流石にこの時代にはない石積です。きっと「予算の制約」があったのだと思う。でも、それを突っ込むのは「歴史好きの建築屋」くらいだろう。そんなことは無視して、小粒だが見応えのある良いお城でした。 |
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次は、藩主の住居でもあった「御殿」で、約160年前の建物です。 藩主といえども、質素なものです。柱・鴨井・長押・天井縁のどれをとっても、部材は大振りです。 内法高(うちのり高:敷居から鴨井までの高さ)も高く、おそらく「兜を付けたまま」でも歩けたのではないか。 長押は、本来は化粧材で「無節で柾目」が普通ですが、この御殿では「節だらけで板目材」でした。もう、まったく見栄を張るところがない。これぞ!『城』であろう。 dogfight注 ホンの数時間前に見た駿府城の武器蔵が総ヒノキの無節材に拘っていたのが滑稽に思える。城造りに宮大工も不要である。史実の再現より「箱モノの見栄」に拘ったのだろう。 |
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高天神城 | |||||
私達は、搦め手門側から行ったのですが、まず目に入ったのが写真上の造成地。意味が分からぬママ進んでみたのですが… これは、城と言うより、地形そのものを活かしたゲリラ戦の場です。石垣などなく「山そのものが要塞」です。私は、楠木正成を思い出した。 到着が15時過ぎで、山頂を目指せば「日没確実」です。それに、 高天神城制覇には、弁当と水筒がいるので諦めた。 ホンのとば口で登坂を諦め、引き返しながら「ハタと思いついたの」のが、造成途中の地形です。 容易に行けない高天神城を「感じてもらう」ためのミニチュアではないのかと! きっと間違いないと思う。 |
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横須賀城 | |||||
高天神城を後にして、浜松へ向かいました。その途中にあるのが「横須賀城」です。 山城と平城の特徴を併せ持ち、二重の城郭様式を持っていたと言われる横須賀城は、武田方に奪われた高天神城奪還を目的に築かれました。その後、落城した高天神城はすべて焼き払われ、代わって横須賀城が遠江東部における拠点となり、明治の廃藩置県まで続きました。 |
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築城の理由から「即効の城」であったと思う。 特徴は石垣で、発掘現場の写真を見ても「玉石」である。天竜川の河川にはたくさんあるそうで、おそらくそこから運んだのであろう。角がない石なので、城郭石垣の特徴である「シャープな出隅」はない。曲線に積まれた石垣は、何とも言えない味があり、私は「沖縄の今帰仁城」を思い出した。 |
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これで、静岡「城巡り」は終わりです。 鈴木様に、浜松駅まで送っていただき、帰路に着きました。まことにありがとうございました。 |
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