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161109‐12

横浜出張を利用した「プラス1」の旅です。
出張が隔日になり、更には「50年ぶりの同窓会」が連なったので、これを利用して3泊4日の一人旅を計画しました。
再婚以来初めての一人旅、いかなる旅になりますやら…
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普段通りの出張です。
午後から会議があり、その前に横浜市の行政機関に立ち寄るため、6:11発の貴志川線で出発。くろしお〜新幹線と乗り継いで、横浜到着です。
会議と必要な監理業務を終わらせて、群馬県へ向かいました。
前橋に75歳になる姉が住んでおり、歳相応に体調不良になっている。車の運転は出来るが、杖がなくては歩けない。一度見舞いに行こうと思っていたので「3泊4日の一人旅」に組み込みました。
5時22分高崎到着。姉の出迎え(思っていたより元気でした)を受け、オーガニック料理のお店へ連れて行ってもらいました。

オードブル

蒸し野菜+ソース(変わった味でした)

白身魚焼き物

チキン焼き物

ルイベのような丼(酵母味)と濃厚な野菜スープ

デザート
どれも「野菜たっぷり」の料理でした。途中からは、食べきれずに残すものが増えてきました。
食事のあとは「前橋の飲屋街」へ繰り出しました。きっと義兄好みのママさんのお店で、11時まで呑みました。久々にカラオケも1曲歌いました。
姉の家に「一泊」させてもらいました。
部屋の掛け軸は、亡き父が書いたものだそうです。お酒の好きな父が、ほぼ泥酔状態で、滑り台から布を垂らして書いたそうです。私には、とても読めないのですが、友人が出典を見つけてくれました。

題名は「山中の月」

作者は「眞山民(1274年頃)
中国宋末の進士で哲学者である。名は桂芳(けいほう)といい、出身地などくわしいことはわからない。宋末の遺民で世を逃れ、人に知られる ことを求めず、自分で山民とよぶ。歐陽修、朱熹、蘇東坡と共に宋代の代表的詩人といわれ、特に敍景詩にすぐれている。

意訳は
 私は山中の月が皎々と輝いてまばらな林を照している光景を愛している。
 月は、世間から離れて独り静かに暮らしている私を憐れむかのように、その光を私に投げかけてくれる。
 もともと私の心は月の様に純真で、なんの邪心もなく澄み切っているが月もまた私の心と同じである。


父はどんな気持ちで書いたのだろう。姉によれば、父は少し屈託があった時期だそうで、お酒も久しぶりであったようです。

書を愛し、茶と華の名手でもあった父。水墨画を書き、クラシック音楽の好きな父でした。風流な人で、がさつな私とは大違いです。
「旦那衆」として、地方の有名人でしたが、打たれ弱い人で、没落後は精神を病みました。とは言え、病床での「一言」が今の私の人生を決めてくれました。
私には「大好きな父」で、誇りの父でもありました。久々に父と出会うことが出来ました。姉に感謝です。
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正門(繭倉庫棟)

工場内部

繭倉庫内部

製糸実演

昼食は「ソーストンカツ」結構美味かった
ここ(前橋)までくれば、世界遺産『富岡製糸場』へ行こうと決めていた。
電車を乗り継いていくつもりでしたが、姉が車で連れて行ってくれるというので、甘えることにした。

浅間山麓を通って富岡へ向かう。富岡製糸場到着は10時。もうゲートには人が並んでいる。

入場料は1000円、更にガイドをお願いすると200円必要です。
10〜15人をグループにして、約40分のガイドです。自由行動を含めても1人1時間くらいの観光です。効率よく回しているのですが、それでも列は長くなるばかり。

ウイークデーで1日数千人、ウイークエンドなら1万人を超えるだろう。下司の考えで、つい計算してしまうのですが、もの凄い観光収入ですね。
ただ、昭和62年の閉鎖後も、無収入の中で「何時でも稼働できる状態」を維持してきたわけで、補填に必要なのだろう。

富岡製糸場は、官営工場としてスタートし、生糸産業の近代化を全国に普及するための「訓練工場」という役目も持っていた。
富岡製糸場の建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに明治4年(1871年)から始まり、翌年の明治5年(1872年)7月に主な建造物が完成、10月4日には操業が開始された。
繭から生糸を取る繰糸所では、全国から集まった伝習工女たちが働き、本格的な器械製糸が始まりました。

その後富岡製糸場は下記の沿革を辿る。
 ・外国人指導者が去った明治9年以降は日本人だけで操業された
 ・器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされ、明治26年(1893年)に三井家に払い下げされた
 ・その後、明治35年(1902年)には原合名会社に譲渡され、御法川式多条繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の統一などで注目された
 ・昭和13年(1938年)には株式会社富岡製糸所として独立
 ・昭和14年(1939年)には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併された
 ・第二次世界大戦後は自動繰糸機が導入され長く製糸工場として活躍しまが、日本の製糸業の衰退とともに昭和62年(1987年)3月ついにその操業を停止した
 ・操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物は大切に保管され、平成17年(2005年)9月に建造物の一切が富岡市に寄贈され、その後は富岡市で保存管理
 ・平成17年7月には国の史跡に、平成18年(2006年)7月には主な建造物が重要文化財に、平成26年(2014年)6月には「世界遺産一覧表」に記載された。さらに、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となった。


モデル工場だけに
 ・就業時間は1日8時間
 ・全寮制で、食事も栄養管理されていた
 ・集団生活だけに「感染症」が多く、病院が完備され、医療費は無料
 ・お茶やお華の「教養教育」もあった
 ・職能給制で1等職工は高給取りであった

施設見学しながら、これらの説明を聞くと、小説「野麦峠」で描かれる『女工哀史』と相いれない。さて、どちらが本当であろうか?
富岡製糸場の募集要項は「15歳以上」であったそうですが、地方の期待を背負った少女たちは、年齢を偽り13歳と言う事例もあったという。

少なくとも、この官営工場では「女工哀史」はなかっただろう。
ただ富国強兵の中、世の製糸工場では「酷使」があったのだと思う。
明治の45年間で、我が国の人口は倍増(3500万人から6500万人へ)している。倍増の理由は「間引きがなくなった」からです。食物もないまま人口爆発などあり得ないわけで、国策で産業が起こされ、食物生産(あるいは輸入)が可能になった。ただ、男は兵隊に、女は女工哀史という、避けられない現実があった。

待機中のガイド氏と話す機会がありました。内容は「建築」についてです。
富岡製糸場は「木骨煉瓦作り」です。
木造の「ラーメン構造」で、30p角・長さ15mの通し柱で構成されている。その柱間にレンガを積んで「保温」を目指した。
煉瓦積には鉄筋補強はなく、接着にはモルタルではなく漆喰を使っている。

これは、建築屋の目で見ると「地震に弱い構造」です。ところが、明治5年の建物が今もある理由は「地震と出会っていない」という理由しかない。
そこで、ガイド氏に尋ねたら、
 ・近くに断層はなく
 ・岩盤の上に建っている
そうである。

この地を選び、プロジェクトの遂行をしたのは、フランス人指導者ポール・ブリュナです。彼は、開港間もない横浜で、生糸の検査官をしていた。つまり、建設の専門家ではない。「地震のない地域」を選んだのは偶然であろう。
資料を見ても、このプロジェクトに建築の専門家が見当たらない。だから建築屋の目で見ると「おかしなこと」がたくさんある。最大のものが「屋根を支えるトラス」である。トラスは「三角系」で力を伝達する構造ですが、小屋組みを見ると「三角形を構成していない」。

建物は、地産地消で造られている。
 ・木材は地元産の杉
 ・基壇の石も地元産
 ・瓦は地元産
 ・煉瓦は瓦工場で焼いた
 ・煉瓦をつなぐモルタルが入手できないため、地産の漆喰で施工されている

これが、太平洋側の巨大地震地帯なら、富岡製糸場はなかったのではなかろうか?
でも、そんなことは抜きにして、実に「見応えのある建築群」でした。良い見学が出来ました。

近くで、昼食を済ませ「次の目的地」へ向かいました。
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眼鏡橋

遊歩道スタート地点に向かう

橋上からの眼下の風景

橋上から向こうに見える橋は、現在の鉄道橋

碓井湖
富岡から、妙義山麓を抜けて「眼鏡橋」へ向かいました。ここは、姉がどうしても「私に見せたい風景」だという。

中山道の難所「碓氷峠」の旧道を走る。
ここは、明治中期に急勾配を登るため「アプト式鉄道」が敷かれ、1997年まで運用されていた。今はレールを撤去して、約4qの区間が「遊歩道」になっている。眼鏡橋が遊歩道の起点で、横川駅まで通じている。

季節は最高です!紅葉が素晴らしい。眼鏡橋の下で車を降り、歩きだしました。橋まで登りきれば、あとは下り坂です。

眼鏡橋橋上から眼下の紅葉が見える。いきなりの感動です。

橋を渡ればいきなりトンネルです。

トンネルを抜けると次の「紅葉」が広がり、素晴らしい風景がある。そんな繰り返しです。






合流地点の碓井湖まで、徒歩で20分。写真を撮りながらののんびり歩行でした。
私は時間の制約があって、1.5qしか歩きませんでしたが、全部歩きたかったなあ。





5時までに横浜まで戻る必要があり、碓井湖で暫し紅葉を楽しんで、観光は終了です。
帰路に、駅弁で有名な「峠の釜めし」に寄りました。イメージと違い、大きな建物です。

高崎まで送ってもらい、新幹線で東京まで帰り、在来線を乗り継いで、横浜関内まで。
今夜は、アパホテル泊りです。
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一人旅「二日目の仕上げ」は、野鳥写真家の浅見氏と呑み会です(写真はサイトから無断借用)。
流石に、120sの巨漢で、呑むのも食べるのも豪快です。
関東のおでんは真っ黒ですが、辛くはありません。無色の関西のおでんと対極ですが、なかなか美味しい店でした。

おでんの後は魚に切替えて、二人で呑んだ日本酒は1升6合。食べる方は追付きませんが、呑む方は「ほぼ互角」で、かなり危ない足でホテルへ帰りました。

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朝から「冷たい雨」が降っている。
横浜市内の行政機関を周る仕事があり、雨の中「荷物を持っての移動」が辛かったのですが、幸い泊まったアパホテルのチェックアウトは11時。荷物をホテルに置いたまま、行政機関を周った。
午後から、建築現場の「中間検査」があり、私は立会いをするため移動。検査終了後、現場での業務を済ませて、東京へ向かう。今夜は、息子家族と会食です。
三男は、仕事のことで「落ち込んでいた時期」があったのですが、どうやら乗り切ったようです。
息子の嫁が言うには「1年くらいダメかな」と覚悟したそうですが、3ヶ月の「出勤拒否」で、新天地へ移動。会った時は、明るい息子になっていました。親として、まずはホッとしました。

以前の職場ほど長時間労働ではなくなったようで、家庭で過ごす時間が増えたようです。
新しい職場のことを「生きいきと語る」のですが、残念ながら私には殆ど理解できませんでした。まあ「新しい試み」に挑戦する会社だと理解しました。

孫も大きくなりました。
再来年は小学校へ入学です。「お父さん、入学式に出席してください」と言われてしまった。さて?元気でいるかな。
お店の雰囲気は「居酒屋」ですが、出てくる料理はどれも豪華で、高級居酒屋でしょうね!
どれもとても美味しかったです。
しっかり食べ、しっかり呑んで、すっかり散財させてしまいました。

息子の家で、孫と一緒に入浴(慣れないので照れくさいですね)。
その後、東京都政の話で、息子夫婦と呑み直し。
11時就寝でした。
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吉田校長先生

校歌斉唱
4泊3日「一人旅」も最終日になりました。
今日は、半世紀ぶりに同窓会へ出席します。11時からの受付ですので、少し時間があります。そこで、息子の好きな「中野セントラルパーク」へ行きました。
陸軍中野学校の跡地で、公園だけではなく、2校の大学キャンパス・総合病院・キリン本社などがります。近くには、中野区役所や中野サンプラザがあります。
中野サンプラザは、私が若いころ「一世を風靡した建物」ですが、老朽化が目立ち「建替え」の予定が出ているそうです。
セントラルパークを中心に、イベントが頻繁に行われるようで、この日も区役所前と大学前でイベント準備が行われていました。

東京には「大きな都市公園」が多いですね。羨ましい限りです。
ただ、セントラルパーではケヤキを主にした公園作りがされているのですが、実のなる樹が殆どありません。〜餌のない処には野鳥は来ない〜分けで、雰囲気の割には野鳥のいない公園でした。
中野駅からJRに乗り飯田橋まで。会場となるのは「ホテル・メトロポリタン・エドモンド」です。
何せ、まるで地理が分かりません。タブレットでグーグルを見ながら歩きました。この当たりは、昔は操車場があったそうで、再開発地域です。大阪で言えば「北ヤード」と言ったところでしょうか。

同窓会と言っても、関東に根を張った人達で造る「愛知県豊橋工業高等学校同窓会・高芦会・関東支部」です。
年1回の集まりで、今回はビジター参加させてもらいました。
何せ、ここでも「高齢化」が進行していました。参加者名簿を見れば、間もなく70歳になる私が「若い方から3番目」と言った有様です。県内就職率全国NO1の愛知県。特に、私の卒業年次以降は、県外就職が殆どなくなり、関東支部への人的補給が途絶えてしまったそうです。

諸先輩の挨拶から始まり、現豊橋工業高等学校校長・吉田様(来賓)の挨拶となりました。そこで、ハタと気づきました!
豊橋にある「葦毛湿原」そこの植物観察と保護に尽くす吉田様ではないのか?で、声を掛けてみたら「そうでした」。2度、葦毛湿原に端を運んでいるのですが、お会いする機会がないままでした。まさか、東京でお会いするとは。こんな機会もあるのですね。私自身も、初参加と言うことで挨拶をさせていただきました。
工業高校と言えば、いまと違って「値打ちのある高校」でした。諸先輩も、有名企でリタイアした方が多いようでした。

最後は「校歌斉唱」と万歳三唱でした。何せ、校歌はうろ覚え。でも懐かしかったですね!
これですべての予定を終了。
一人旅で、人恋しくなりました。2次会には参加せず帰路に着きました。さて?来年はどうなりますかな…









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