1日休めるのは、さて…
10月のどこかで1日休んだが、それ以降初めて休日。
12月3日曇り時折雨
部屋の掃除を済ませ、今ごろ衣替えをして、少し着込んで家を出ました。寒い1日です
南海電車金剛駅から急行に乗り、橋本(和歌山県)で乗換え。RJの奈良線(和歌山と奈良を結び紀ノ川沿いに電車は行く)笠田(かせだ)で下車。山々が綺麗な紅葉を見せてくれました。
笠田の駅では、エスコート役の姉様が迎えてくれました。
私を待つ間、駅で出会ったオバチャンに「天野の里」があると聞いたそうで「どうか」という。
私は、興味をそそられた。
NPO運動を起こしているのは、あまの街道(天野街道の一部)です。高野山を挟んで同じ地名があることに興味を覚えました。私の能力で、その関連性を調べることは不可能ですが、きっと何かあるのだろう。
車で山道を30分登り、トンネルを越えたら、天野の里(かつらぎ町上天野)でした。きっとトンネルが出来るまでは陸の孤島だっただろう。
天野の里 |
横笛の恋塚 |
車をおき、徒歩で歴史散歩
まずは「横笛の恋塚」です。ここにはこんな謂れがあるそうです
−−−平家に仕えた名門武士、斎藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛と恋におちたが、実らぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。後に高野山で多聞坊浄阿と称し、仏門修行の毎日を送りました。横笛も後を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に身を投げたなどの諸説があるが、治承3年(1179)高野山に入った時頼の後を慕い、ここに庵を結び、恋しい人に会うこともなく、19歳で亡くなったと伝えられています
四畳半ほどの庵がある。ここは「西行庵(写真右)」
西行法師の足跡はこの付近で多い。私が見学したところだけでも、奥吉野と終焉の地「弘川寺」がある。きっと、歌を詠みながら放浪を続けたのであろう。法師が、生産活動をしたはずもなく、尊敬の対象として「たおやかな晩年だった」と想像します。ただ、記憶にある西行庵はどれも小さく、質素な生活であっただろう
西行庵の次は…
その前に体が冷えて、トイレへ。ついでに、地元のオバチャンたちが運営するお店で、焼き芋(写真中央)を購入、少しのお腹に補充しました。
途中、梅の古木にサルノコシカケ(写真右)がたくさんついていました。ガンの特効薬といわれるもので、もし私が癌に掛かったら採取にこよう
大念仏一結衆ほうきょう印塔にお参りして、世界文化遺産に指定されている「丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」へ
いよいよ「丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」です。 本殿は4棟から成立つ美しい建物です
縁起はこうなっています(長いので、ネットでご覧下さい)
http://wiwi.co.jp/kanko/kataribe/01/detail_01.html
興味深いのは、丹生都比売は、出雲の神々の集合に遅れ、それを羞じて岩屋に閉じこもる。丹生都比売を誘い出すため、笑いながら踊りが披露されたという。
まるで『天岩戸』と同じです。このことから、いくつもの想像が出来ます。
・天野の地名は「天岩戸」と共通するのではないか
・丹生都比売の遅参は、出雲から天照勢へ乗り換えた証
こんな風に考えられる。まさに、ここは歴史のスタート地点だと思う。
更におもしろいのは、丹生=水銀(朱色の素)であることです。
怨霊を恐れた古代、怨霊から免れるのに必須の水銀は貴重な存在で、それを産するものは絶大な勢力を持ったであろうことです。
http://kamnavi.jp/ny/minzoku.htm
それだけに、出雲と天照の間で、丹生一族の奪いあいがあったであろう。
このあと、中ノ沢明神と八幡社を見学して、温泉へ これは明日、ご紹介します