この話題を書こうと思ったのは、Mさんの日記からであった。それは私にとって、とても新鮮でした。何故なら…
私は、いつの間にか「大和朝廷側から歴史を見ていた」のに、Mさんのコメントは「アイヌ側」からのものでした。その部分を紹介したかったのですが、何かあったのだろうか?消されていました。
今日が、事実上のシリーズ最後です。
大和朝廷の成立は4世紀半ば。当時は、一地方政権に過ぎません。
神話?日本武尊の活躍で分るように、政権成立以前は西に目が行っていた。さて?東に目が行ったのは何時頃であろうか。いえることは、東に目が行って始めて大和朝廷は膨張を始めた。とはいえ、壬申の乱(672年)当時の国境線が、岐阜−三重を結ぶものであったことで分るように、弥生人に同化しななかったアイヌ民族にとって、大和朝廷成立は直接の脅威であったとは思わない。
中大兄皇子による、百済救済は大敗北で終わる。
反撃を恐れた天智天皇(中大兄皇子)北九州各地に城を築き『防人』を置く、7世紀中頃のことである。
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
私の大好きな歌である。
防人は、まだ大和朝廷に下っていないはずの東国の民が駆出されている。これで分るように、大和朝廷と塞外の民は微妙な関係化にあった筈である。
大和朝廷が、アイヌ征伐に踏切るのは、8世紀後半のこと。『征夷代将軍』名が示すように「夷を征する」役目を負ったものだ。後に、幕府を開く権利となる役職だが、当時はそんな意識はなかったであろう。
・もっとも有名な征夷代将軍は『坂上田村麻呂(758〜811)』
・初代征夷大将軍大伴弟麻呂のもとで副将軍として活躍
・その才能を桓武天皇に買われ、803年には自ら征夷大将軍として出兵
アイヌの将『アテルイ/モレ』の二人に投降を進め、命の保証をして長岡京に凱旋する。しかし、桓武帝はそれを許さず、翌年、河内の椙山で斬った。
これをもって、アイヌの反乱は事実上終焉。坂上田村麻呂は、軍神としてあがめられ、東北経営は安定する
これは、朝廷側から見た歴史である。
冒頭に述べたM氏は、これに真っ向から異論を述べた(これが紹介できないのが残念)。以下は私の記憶による。
・坂上田村麻呂は少数の軍でもって、アイヌ軍を下したとされるが本当か?
・坂上田村麻呂は人望があり、アテルイやモレは降伏したとされるが本当か?
・坂上田村麻呂は本当に彼らを助けられると思っていたのか?
これに対する私の感想を述べて終わりたい。
(全て私の想像です)
坂上田村麻呂が、全くの敵地で戦ったとしたら「少数の軍でもって、アイヌ軍を下した」のだろうが、私にはそうは思えない。稲作が伝わって800年がたち、かたくなに「採取生活」を守る人は、最早少数ではなかったか。アテルイやモレは孤高の人で、清くはあったが、多くの人は「安定した生活」を望んだように思う。
砦は、櫛の歯が欠けるように、手薄になってゆき、アテルイやモレには「更なる逃亡か、降伏」しか選択肢がなかった。
青森のお祭り『ねぶた』の起源は、この坂上田村麻呂に到るようだ。
これをもって、彼は尊敬された武将であったとされる。ついいまの、近代戦を想定しがちだが、当時は「基本的に屯田」であった。稲を作りながらの長期戦である。坂上田村麻呂は優秀な行政官であったのだろう。砦を出て、降伏した兵を厚く遇したと思う。都で、長岡京は未完のまま「平安京」の造営が始まっており、いくらでも投降兵が必要だった。この「人の確保」からも、熱い戦闘ではなく、投降を促す作戦が取られたはずだ。
結果的に、食料の安定をもたらせてくれる「敵将」であったのだろう。
坂上田村麻呂自身も、己を優秀と信じ、桓武帝の信任も厚いと思っていたのであろう。ただ、桓武帝は歴史では珍しい独裁者であった。アテルイやモレの処刑後、坂上田村麻呂は舞台から姿を消していく。
やはり私は、朝廷側から歴史を見ている。
アイヌ側から見れば「大きなお世話」であったはずである。豊かではなかったも知れぬが、彼らは「自活」していたのだ。現代に置き換えるなら、素朴な田舎生活に「物質文明」が押し寄せたものだろう。
こうした「親切の押し売り」が歴史を変えていく。そう〜いまのアメリカのように…