dogfight高松の長すぎるひとり言
1998年9月

ピピ○○の不自由な人人生50年高野山国家資格約束趣味ピピの死台風一過メンテナンススペイン紀行
980909ピピ

   ピピ=我が家のペット・背黄青インコ・年齢不詳・性別不明
5年前の5月の日曜日。ベランダの窓に「ゴツン」と音がした。何事かとベランダに出てみたら「背黄青インコ」が気絶していた。窓ガラスに激突して気絶したものらしい。
何やら様子が変だ。本人は何も語らないが(当たり前)事情が読めてきた。どうやら、飼われていた家を飛び出し「迷子」になったようだ。ペットは自分で餌を探せない。空腹に耐えかねて、我が家に飛び込もうとしたらしい。一体何日間迷子になっていたのであろうか?

瀕死の状態で、気がついても動けない。餌をついばむ力も無い有り様で、餌をぬるま湯でふやかし「すり餌」にして口に運んでやる。少しずつ食べ出した。

ピピが迷い込んで二日後に義母が死んだ。ピピは母の入れ替わりにやってきたようだ。
葬儀が済んでもピピは不自由なままである。初めて動物病院を訪ねる、診断は「栄養失調」とのこと。ビタミン剤を水に溶かし飲ませ、餌は高カロリー食に代える。一週間ほどで普通のインコに戻った。その間、飼い主を探したが現れない。結局我が家で飼うことにした。

飼うとなれば「名前」が必要だが、非常に民主的な我が家の弊害が出た。家族それぞれが「勝手な名前で呼ぶ」。収拾がつかない。程なく「ピピちゃん」と自分で言い出した。自主申告に勝るものはなく、「ピピ」に決定。その後次々と言葉をしゃべり出した。よほど大事に育てられたのであろう「自分のことを鳥と思っていない」ことに気付いた。

私は動物好きであるが、檻に入れることが大嫌いである。
中学生の時「夜店で黄色い雛鳥」を買った。誰も育つと思わなかったようであるが、見事に育て上げた。5匹の雄鳥は勇ましく、放し飼いで育てたため堂々と空を飛ぶ(鶏は飛ばないと思っている人が多い)。育つ過程で猫に襲われ半減はしたが、大きくなれば「逆に猫を襲い」恐いものなしである。常日頃は屋根の上でたむろし、見知らぬ人が訪れると空中から襲う見事な「番鶏」ぶりであった。この鶏はある日「家族に食べられてしまった」(私には相談が無かった)

大変躾の良いピピである。
以前、やはり迷い込んだ文鳥を飼ったことがある。
放し飼いにした文鳥は所構わず糞をして困らせたが、ピピは鳥篭と洗面所そして「なぜか私の肩」でしか糞をしない。篭から出て遊びたいときは、自分で扉を上げて出て行く。水浴びをしたければ台所に来て泣き叫ぶ。遊び疲れて篭に戻りたいときは「篭の上で鳴く」と言ったように「意思表示をちゃんとする」賢いインコである。

そんなピピが近頃変だ。時間の区別がつかないらしい。自分で外に出る体力が無い。言葉も喋らなくなった。老衰現象にしか見えない。ボケも来ているようだ。
甥に獣医の卵がいる。「鳥にもボケがあるのか?」と質問したら、あるそうである。

ペットは心をなごましてくれる。でも、辛い別れが必ず来る。その覚悟がボチボチ必要だと家族の話題となっているこのごろである。

980911○○の不自由な人

差別用語や放送禁止用語と言ったものがある。それを置き換えたのが「○○の不自由な人」である。いつの頃から言われ出したか定かではない。少し古い映画をテレビで見ていると「プツン」と音が跳ぶ。これは放送禁止用語の部分を消去するため処置である。してみれば、そんな昔からのことではないようだ。
 めくら=目の不自由な人
  つんぼ=耳の不自由な人
  いざり、びっこ、ちんば=体の不自由な人
  おし =言葉の不自由な人

何の抵抗も無く使ってきた言葉が、ある日「差別用語」になっていた。私が「何の抵抗も無く…」使ってきたのは、差別の感覚を伴わなかったからである。差別用語とされるのは、逆に「差別」が意識され出したからではないだろうか。 

澤田ふじ子氏の時代小説を読んでいたらこんな記述が出てきた。戦前まで、仏教法話が盛んに伝承されたと言う。仏様が「かたわ」に身を代え俗世に姿をあらわし、人を試す話が多く、大人が子供に「かたわの人は仏様の化身だから大切にするように」と教えたそうである。私はかろうじて戦後生まれである。学校教育で仏教法話を聞いた覚えはないけれど、母から聞かされた記憶がある。澤田氏によれば、法話が伝承されている頃は「○○の不自由な人」がイジメや差別にあうことはほとんど無かったそうである。私もこれを読んでおおいに思いあたった。それが差別の感覚を伴わなかった理由のようだ。
時の流れが世を代える。戦後憲法が変わり「政教分離」が行われた。仏教法話もそれに合わせ教えられなくなったのであろうか。

太平洋戦争を挟み「価値観」が全て変わってしまい、「昔=悪い」の刷り込みがありはしないだろうか?半世紀を過ぎて生きていると、結構冷静に物事を見ることができる。失われたものの中に、大切なものがいっぱいあったのではないかと最近思っている。

980912人生50年

謡曲「敦盛」の冒頭に「人生50年…」の一節がある。織田信長が本能寺の変で最後を迎えたとき吟じたとされる。
平均余命の伸びた現在、人生50年はさすがに早すぎる。
が、節目のように思う。私自身51歳の今、50歳を越えてからの変化に戸惑っている部分がある。体力の衰えは言うまでもない。気力も衰え、ややもすれば気弱な自分に気づくことが多い。「今時の若い者は…」が盛んに登場すれば、立派に老境に入ったと言うべきか。
そのくせ「若さを保つ」ことを夢見ている。
物理的な老化はいかんともしがたいが、精神的若さは保ちたいものである。そこで、
 1.好奇心  2.チャレンジ精神  3.色気
この三つを大切にしたいと思っている。若いころより、好奇心とチャレンジ精神は旺盛であった。

40歳を過ぎて、大学に進学(仕事との両立ができず落第生)し女房に笑われた。
母校(工業高校)に連絡を入れ「卒業証明書と内申書」を送ってもらう際、事務局の職員が怪訝な対応をしたことを覚えている。念願の大学合格を果たし入学金の納付。銀行で「お子さんですか?おめでとうございます」と言われ苦笑い。

学生手帳片手に「通学定期」を買うときは、吉本興業顔負けの喜劇であった。風景を想像したのであろう、それを見たいと女房がついてきた。

「お宅が学生定期ですか?」‥‥‥「そうです。おかしいですか?」
 「でも…」‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥「学生手帳の写真、私と違いますか?」

こんな遣り取りが続く…、後ろで女房が高笑いをしている。
授業も面白かった。
私が教室に入っていくと、教授と間違い静粛になる。私が先生ではないと気付き笑いが起こる。本物の先生の方が私より若いこともあり、先生も私を「先生」と呼ぶ、学生はさぞ混乱したことだろう。
時はバブル絶頂期、相次ぐ「就職を誘う企業案内」には抱腹絶倒した。

やはり、40歳を過ぎてツールをコンピュータに切り替えた、「四十の手習い」である。
今、コンピュータは私にとって必需品となっている。ただ、ウインドーズ以降の最新システムにてこずっている。頭が硬くなってきているのであろう。

「色気」は私にとって最大の難問である。
ロリコン趣味はなく、「我が子より若い女性」にうつつを抜かす気持ちにはなれない。薬アレルギーの私には「バイヤグラ」も服用できない。

クライアントで大変魅力的な女性がいる。この「色気」で困っている話をしたら、「先生、女はお金です」と断言された。これが事実なら、さらに私にはシンドイ状況になる。
「若さを保つ三原則」の道は、遠く険しいようだ。

980913高野山

高野山は空海の開闢による真言宗の総本山である。
司馬遼太郎氏の「空海の風景」によると、佐伯一族の期待を一身に集め中国に留学、真言密教を日本に伝える。「私費留学生」であったという。国費留学生であった最澄(比叡山延暦寺を開闢)と反りが合わず、最後まで反主流派で通した。

高野山には、武将の墓が並び「日本で最も高名な墓地」でもある。
庶民には縁の無いところであろうが、なぜか塔頭の一つ「普門院」に先祖代々の納骨をしている。

昭和27年。私が5歳のとき、家業に失敗し和議申請をする。当時で2千万円の負債であった。半額は家屋敷を処分し、残りは長期ローンで決着を見る。
その日から「働かざるもの食うべからず」が冷徹に実行された。5人兄弟の末っ子(内、男3人)の私はさすがに免除されたが、小学校2年から戦列に参加した。
おかげで、虚弱体質(満7ヶ月で出産。保育器の無い当時、生き残ったことが「奇跡」と言われたそうだ)と自閉症(ホントの話)から開放された。頑強な体と強固な意志は赤貧生活の賜物である。

苦労話は自慢にもならない。
ただ、どうしても忘れられない出来事が二つある。

義務教育を終わり「就職」を考えた。いくつか入社試験を受けたが失敗続き。そんなある日、父から「おまえに残してやれる財産は何一つ無い。俺の遺産だと思って、高校に進学して欲しい」と。あの言葉が無ければ、私の人生は大きく変っていたであろう。いま、建築士として生きていけるのも父のおかげと感謝している。
和議の約束を守り負債を返しつづける生活が続く、それでも明かりが見えたとき、第2の不幸が襲った。
昭和34年9月、死者6000人を出した「伊勢湾台風」で壊滅的な打撃を受けた、まだまだ「ネバー・ギブアップ」が続く。

昭和37年(私が高校1年)の暮れ。母はせっせとドテラ(綿入りのたんぜん)を4組縫い出した。そして大晦日。
伊勢湾台風の爪痕がまだ残るバラック(我が家)で父と3兄弟にドテラを着せ、「並んで座って…」と母が。4人に杯を持たせ酒を注ぎ「今日で全ての借金を返済しました」と言ったきり泣き伏した。我が家はやっと「0」に戻った。

そんな両親も亡くなった。跡を取った兄の方針で「普門院への納骨」は中止され、その兄も55歳の若さで父母の後を追った。私には父母の遺骨が無いけれど、いつの日か普門院を訪れ「気持ちだけでも先祖と合祀して欲しい」とお願いするつもりである。高野山が近くであることを願っている。

980917国家資格
「医者と弁護士そして会計士を友達に持て」という。まったく同感である。彼らはまさかの時の用心棒であり、心強い仲間である。言うまでもなくこれらは「国家資格」である。外国に旅しても敬意を持って向かえ入れられる職業と言って良い。

同じ国家資格とはいえ、まったく迫力の無い資格がある。その代表格が「一級建築士」ではないだろうか。我が国の資格を無条件で受け入れる「国」などどこにも無く、国際的に見ればまったくローカルな資格である。運転免許ですら簡単な切替えで「国際免許」になるのに情けない限りである。だからと言って「簡単に取れる資格」等とは思わないで頂きたい。司法試験に匹敵する「狭き門」である。受験者10万人に対し合格者8千人で、それも「予備校」に通わなければ合格はおぼつかない世界である。
これほど取得が困難にもかかわらず世間の評価は低い。なぜであろうか?

本来、「技能をチェックするのが目的」の試験であるにもかかわらず、落とすための「クイズ」に終始している。
出題は「マークシート方式で5問からの択一」で行われる。建築のことなど何も知らなくても、勘が鋭くギャンブラーの素質があれば合格しそうなシステムである。
私が合格したときは「6角形の鉛筆を5角形に削る」ことから始めた。確実に自信があったのは4割で後は「鉛筆転がし」に頼った。ちなみに合格ラインは7割である。

難関を突破しても、一級建築士のニューフェイスを誰も「即戦力」として扱わない。資格が、建築の技量を反映していないからである。プロの世界でそうであるから、世間の評価はもっと低い。そんな訳で…

車を買うとき、ショールームを何軒も回り「しっかり確認して選ぶ」であろう。
ところが家を買うときに「建築士に相談する」人がどれだけいるだろうか?私が相談を受けるときはほとんど購入後である。
事前に相談を受ければ避けられる「トラブルやリスク」が多い。専門家が見れば一目で「おかしい」と気づくことでも「素人は簡単にだまされる」。
だます建築屋が多いため、我々は信用されない。悲しいけれど現実である。建築士と言えども玉石混合で「誰が信用できるか?」など仲間内でしか分からない。
その意味では建築士も「まさかの時の用心棒」に加えるべきかもしてない。何せ「貴方の一生の財産を左右する」ことが多いのだから。

私には仲間がいる。不思議に有資格者が多く、上記資格のほか「不動産鑑定士・特殊情報処理士・国際ガイド」と言った職業がそろっている。なにかある時、心強いことこの上もない。私の最大の財産である。

980918約束

いろんな約束がある。
仕事の約束・遊びの約束・恋人との約束などである。お互い「忙しいから」約束をする。毎日が日曜日なら約束の必要はない。

約束に優先順位を付ける人がいる。例えば、仕事の約束は無条件で「第1位」と位置づける。早くから「遊びの約束」をしていても、仕事が入れば簡単にキャンセルしてくる。彼の価値観から言えば、仕事は至高のもので「遊びをキャンセル」することに何の罪の意識もなく「当然のこと」となる。仕事の大切さを否定するわけではないが、少し頭を使えば「遊びだから…」と言ってキャンセルする必要の無いケースも多々あろうと思うがいかがであろうか。

私は順番を重視している。
遊びの約束が既にあり、そこに仕事の連絡が入れば「既に先約がありますので…」と、ずらしてもらう。時に不興も買うが、なんであれ約束したことは守ろうとする。仕事上、打合わせは頻繁に行われる。定例会議は優先するが、スポットの打合わせは日程調整の必要がある。通常、打合わせ日は「互いの都合を聞いて」決められ、一方的に指定されることはない。ところが「ある日突然一方的に会議日程」を指定してくる企業もある。決して当方の都合など尋ねない。「先約がありますので…」が何度か続き、仕事そのものがポシャッタ経験もある。
概ね、大企業のほうがマナーは良く、新興企業ほど一方的なことが多い。

度々デートに遅れ「恋人に振られる」こともある。ずぼらで約束を守らないケースもあるが、多くは「仕事とバッティング」し結局約束を破ることになる。若い人に多いジレンマであろう。彼女が我が侭であったり、彼の仕事の段取りが悪かったりと「未熟」が原因となることが多い。
仕事とか、遊びに関係なく「遅刻の常習者」がいる。言い訳尽くしの常習者もいるが、多くは「堂々と」遅れてくる。頭の構造を見てみたいと思うが、これまた罪の意識はない。
仲間と別荘を借り「海」に行ったことがある。持ち主の好意で、なかなか食べられない「田舎料理」が予約されていた。時間厳守を言い渡していたのだが、出発の時刻になっても現れない。皆イライラと車で待っている。やっと、海から帰ってきて「悠然とシャワーをはじめた」。こうなると全員諦めである。ちなみに彼は「常習犯」である。

遊び好きの私は、よくイベントの幹事をする。幹事をしていて一番難儀なのは「行けたら行く」と言う返事である。交通機関や食事の予約を取る幹事としては判断に悩まされる。結局、気を使い金を遣うことになる。
私にとって、仕事も遊びも「生きていく大事な糧」と思っている。しかし、仕事は大事だが遊びは二の次と言う人が大変多い。それがこんな結果を招いているようだ。

980920趣味

「ご趣味は?」こう聞かれると答えに窮してしまう。趣味が無いわけではないと思っているが、いまだに「自分の趣味」に答えを出していない。
小遣いの使途の順位は1.酒代/2.図書購入費である。酒代に、友達との交際費が含まれることは言うまでもない。「酒」が趣味になるのか?私でなくても「NO」と答える人が多かろう。私はただの飲兵衛に過ぎずマニアではない。私はさしずめ「世の中に絶えてお酒のなかりせば俺の心はのどけからまし」と言ったところである。

読書はどうであろう。建築は「雑学の積み重ね」。読書はその手段であり、必要な素養と思っている。だから私にとって趣味や教養にはなり得ない。ただ、この考えを他人に強いるつもりは全く無い。「趣味は読書です」と答えることがケシカランと言っているのではなく、ようは私の「心のありよう」に過ぎない。

物心が付いたころ、クギで地面に絵を描いていた(自閉症であった私は、他人と遊べず常に一人であった)。「絵」との付き合いはそれ以来で最も古いが、趣味と言えるか?はなはだ疑問である。10年に1度の割合で3度「絵カレンダー」を作っているが、常日頃絵を描いているわけではない。何かのエポックに集中的に絵を描くに過ぎない。つまり継続性に欠けるわけである。やはり「趣味の定義」に反しているように思う。

カラオケを趣味に上げる人も多い。「マイクを離さない」ご人は結構いて、本人にとっては結構な趣味である。が、いかんせん「唯我独尊」が多く、他人の迷惑を顧みない。酒を飲みながら「人間修養の場」に変ることも珍しくはない。私も歌は好きなほうであるが、青春期の記憶が強烈で、得意な曲は「30年前」が主流となる。最新曲でも10年は経過しており人前で唄うのは気恥ずかしい。常に流行の歌を唄う同年代の友達が「宇宙人」に見えてしまう。

何かと晩生で30歳を過ぎて覚えたものが多い。酒のほかに「麻雀・碁・将棋」もお付き合い程度に覚えたが強いほうではない。競輪競馬競艇は未経験。ゴルフはせず、運転免許は持っていない。友達からは「生きた化石」と言われる。

昔から少し放浪癖がある。サラリーマン時代は「プラス1の男」と言われた。出張毎に「1日水増し」して各地を回ることから付けられた渾名である。今は精神のリフレッシュを兼ね手近な旅(全く計画性が無い。行き当たりばったり)を楽しんでいる。ひょっとしたらこれが私の趣味かもしれない。

980921ピピの死

ピピが逝った。もう「ピピちゃんおはよう」は聞かれない。

この1週間あまり、ピピは飛べなくなっていた。
籠から出てもよたよたと床を歩くだけ。
人恋しいらしく、まつわりついていた。元気なころは体を撫でられるのを嫌がったのに、気持ちよさそうに撫でられていた。

昨日ピピの好きな「目玉焼きとバナナ」を用意したのに、ほんの少ししか食べなかった。
ピピはピピなりに、私たちは私たちなりに充分時間をかけ「お別れ」を告げたように思う。

朝6時、まだ体の温もりが残る亡骸を見つけた。
ピピが毎日窓から見ていた、雨の降る「公園の桜の木」の下にそっと埋めてきた。
秋の枯葉が直ぐに隠してくれるだろう。そして土に返っていくだろう。

5年間「ピピちゃんおはよう」の声を聞いて起こされたのに…ありがとうピピちゃん。そして「さようなら」

980924台風一過

「台風一過」と来れば「青空」が相場である。
ところが台風7号以降秋雨前線が居座り雨続きである。今年は台風が少ない年だと言われているが、それでも9月に入って台風ラッシュである。
5号は東北に上陸、韋駄天8号は7号を追い越して21日に近畿に上陸。続いて22日にまたも近畿に7号が上陸した。これはなかなかの実力者であった。災害慣れしていない近畿の住民には久しぶりに味わった怖さであった。
地震以外の災害対策の進んだ現在、11人の死者を出したのは「大型災害」といえるであろう。特に、奈良県下の被害が大きく鉄道は今も復旧作業が続いている。

大規模災害が起きるとほとんど「国を相手取った住民訴訟」が起きる。
数年前になるが「大東風水害訴訟」の最高裁判決が出た。結果は「住民敗訴」であった。友人の弁護士と飲みながらこの話になったが、「下級審で住民勝訴・上級審で敗訴」がパターン化しているそうである。なぜこのようになるかは「判断レベルの差」と言えそうである。

技術的に対応可能と現実の間には大きな隔たりがある。私は建築の設計を行っているが、同時にマネージメントも行う。プロジェクトの予算をバランス良く配分する必要があるからだ。技術先進国の我が国では「素人が想像する、あるいは夢見る」事はまず可能と言って良い。しかし、コストパフォーマンスが引き合わなければ「現実的」ではない。

災害訴訟において上級審程このバランス感覚が働くようだ。「予想された被害であり、対策を怠った行政に責任がある」と言うのが住民の訴訟理由である。しかし、「予測できる」ことと「対策可能」とは別の次元で論議されるべきであろう。
10年以上も前の「科学朝日」誌に「日本における最大の津波」が報じられた。それによると、石垣島で「高さ200mの津波」の痕跡があるそうである。200mの津波の可能性があるならば「対応するべきである」としたらどうであろうか。やはり飲みながらであるが「200mの津波に耐えられる堤防建設」のコストを計算したことがある。たいして根拠のある数値ではないが、「国家予算全てを使って建設できるのは年間数km」が答えであった。とても対応できることではない。

去年ドイツに旅し、ライン川やドナウ川を見てきた。総延長7千kmに及ぶ川で高低差は200mあまりしかない。まさに「とうとうと流れる川」であった。それから見れば日本の川は「全て激流」である。完璧な治水は未来への夢であろう。その時「自然保護団体」は、聳え立つ護岸を見ていかなる反応を示すであろうか?

980925メンテナンス

メンテナンスは「保守」と訳される。日本人は保守と補修の違いが良く理解できないらしい。両者を医療に例えるならば、「保守=病気予防・補修=病気治療」の違いがある。

私は建築士で、建物を作るのが仕事である。「建物にはメンテナンスが必要です」と必ず説明するのであるが、保守契約をされる方は希である。昔から建物維持には建設費と同額が必要と言われる。これがどれだけ正確かは疑問であるが、維持費用が必要なことは間違い無い。
私のクライアントで非常にメンテの良い企業がある。本社ビルは竣工後8年経過しているが、先般全国の同業企業を集めて研修会があり、「新築ビル」と間違われた方が多数いらっしゃったとのことである。故障してから「治す」より、普段からのメンテが有効なことは言うまでもない。

建設会社は有限であるが「瑕疵補償」の義務を負っている。しかし瑕疵と故障とは自ずから異なる。故障に対し「無償修理」を要求するクライアントが後を絶たない。建物にはいろんな設備が内包されており、それらは常にメンテが必要である。クレームの多くは「メンテ不足による故障」で、補修費の支払いで更にもめることが多い。

こんな嘆きを友人(プラント設計)に話したら、生産設備の世界では「メンテは当たりまえ」だそうである。世界が違えば「常識」が違うようである。

私にも「メンテナンス」が必要になってきた。来週はスペインに旅してくる。25年ぶりのスペインはどのように迎えてくれるであろうか。


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